片町(読み)カタマチ

デジタル大辞泉 「片町」の意味・読み・例文・類語

かた‐まち【片町】

片側町かたがわまち」に同じ。

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精選版 日本国語大辞典 「片町」の意味・読み・例文・類語

かた‐まち【片町】

  1. 〘 名詞 〙
  2. かたかわまち(片側町)
    1. [初出の実例]「げらげらと・片町祭りせいがない」(出典:雑俳・神酒の口(1775))
  3. 町の片方。町の片すみ。

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日本歴史地名大系 「片町」の解説

片町
かたまち

[現在地名]大村市片町

玖島くしま城の北東、ほん小路の北に位置する。町の入口海手の三四間一尺余の地に定夫小屋があったが、寛文五年(一六六五)取払われ町屋の普請が行われて当町が成立、しん町と俗称された。また同八年より武家地であった草場くさば小路から徐々に武家屋敷が移転してふくろ町・稲荷いなり町・長店ながみせ町が起立、町人地の片町に編入されたという。さらに寛永一二年(一六三五)海手の杉山が開かれて町屋化していたが、これも編入された。「大村郷村記」によれば片町筋の本町で、枝町に稲荷町・袋町・長店町があり、町並は片町門際から草場川板橋(現鶴亀橋)までの長さ四町四八間一尺、幅は片町口門際が三間三尺余で板橋際が四間一尺余。


片町
かたまち

[現在地名]酒田市上本町かみほんちよう

庄内藩新井田にいだ蔵西側にある西側のみの片側町で、南側のかみ蔵との間は堀と土手で隔てられている。内町組に属する。明暦二年(一六五六)の酒田町絵図(大泉叢誌)によると町の長さ一九九間・幅三間、屋敷七三軒。南東の端に八幡宮別当法光ほうこう院が、新井田川沿いに材木蔵・米留番所がある。東側の新井田蔵との間はもと空地になっていたが、のちに人家が建ったため北部を当町から割き給人きゆうにん町と称した。同じ頃町域を二つに分けて南側を上片町、北側を下片町と称した。


片町
かたまち

[現在地名]田辺市片町

田辺城の北側外堀に面して東西に延びる片側町。大手筋より東を下片しもかた町、西を上片町とよび、大手筋沿いのほん町によって分断されている。下片町の北はふくろ町、上片町の北は本町。享和元年(一八〇一)の調べでは、上片町の長さ四七間(本町境目より円助家まで)、幅二〇二尺。下片町の長さ八九間半(本町境目より善左衛門家まで)、幅四間二尺五寸。以上間口計一三六間半、ただし二八間半役(「田辺藩古記録」宇井文書)


片町
かたまち

[現在地名]米沢市駅前えきまえ一丁目・ひがし三丁目

なか町の北にある下級家臣(原方衆)屋敷町。佐藤庄司さとうしようじ(米沢雑事記)とも称したようである。信濃しなの町を通る上片子かみかたこ道の二筋北の脇道に沿う両側町(一部は片側町)。南の小国おぐに町とを結ぶ横道が三筋あり、また当町から北のくぼ町へも二本の道が通じている。花沢はなざわ八町の一。明和六年(一七六九)の原方屋敷絵図(市立米沢図書館蔵)によれば家数五三。弘化三年(一八四六)の屋敷割帳では御弓・御扶持方・御中間小姓などの屋敷四七、寺一、空屋一〇。明治二〇年(一八八七)の「地方行政区画便覧」には上花沢片町とみえる。


片町
かたまち

[現在地名]館林市大手町おおてまち本町ほんちよう一―二丁目

館林城大手門を中心として南北に連なる堀に沿った道の西側に延びる片側町。西に連雀れんじやく町・大工だいく町・並木なみき町・鍛冶かじ町、南に金山かなやまが続く。延宝二年(一六七四)城下町図に町名がみえる。「館林記」には板葺家二一、男四二・女三一、馬三。弘化三年(一八四六)の町方引渡帳(館林藩史料)には長さ二町一三間余、家数一八、ほかに町役人の無役屋敷二がある。この町役人は名主・問屋の二軒をさす。問屋は町のほぼ中央にあり、給金五両・給畑四反歩で太郎次が勤める。嘉永元年(一八四八)の城下地図では堀端までの道幅二一間二尺、北部の道幅七間三尺。


片町
かたまち

[現在地名]函館市弁天町べんてんちよう弥生町やよいちよう大町おおまち

明治五年(一八七二)二月に一町として公認された町(同年「御達留」市立函館図書館蔵、「事業報告」第一編)鍛冶かじ町の南東続きで、南西(山手)茶屋ちやや町、北東は大黒だいこく町および高龍こうりゆう寺の境内など。近世には山ノ上やまのうえ町の小名であったと考えられる(「蝦夷日誌」一編)


片町
かたまち

[現在地名]水口町秋葉あきば

松原まつばら町の東、東海道を挟んだ両側町。南は野洲やす川、北は古城こじよう山に通じる。東端には水口宿東見付が置かれた。延宝七年地子赦免帳では居屋敷二四・番屋敷一・他一、屋敷地の間口は最大七間一尺余・最小二間四尺余。町の中ほど北側に山の神道がみえる。文久二年書上では町の東端に江戸口惣門と番所を記す。居家数は一四、ほかに明家一・明地一・職場一・曳山山蔵一。居家の内訳は商家八・旅籠三・畳職一・百姓二。水口宿栄枯伝馬難立訳略記(水口宿文書)によれば、慶長六年(一六〇一)当時は当町以東の東海道は未整備で河原沿いを通ったが、同一〇年に当町よりやま川を越えて新城しんじよう村に至る道が開かれ、これが東海道となった。


片町
かたまち

[現在地名]高知市与力よりき町・鷹匠たかじよう町一丁目

郭中かちゆう南端、南与力みなみよりき町・八軒はちけん町の南側にある。南側はかがみ川堤防で、東西六町三間(高知市沿革略志)、南向きの片側町。東端から外堀を越えてしも町の掛川かけがわ町に連なる。町名は町並にちなむ。古くは土手どて町ともよばれた。天保一二年(一八四一)の城下町絵図に「片町」とみえる。


片町
かたまち

[現在地名]桑名市片町

江戸えど町の南に続き、東海道筋にある南北長さ一三〇間の町屋敷地。東は堀を隔てて城内三之丸さんのまるに対し、南端に南大手みなみおおて橋がある。堀端の南半分は河岸となり、片側町であるため片町と称し、北片きたかた町・南片町と分称する。河岸には木曾・長良ながら揖斐いびの三大河川の水運により集められた物資が陸揚げされ、青果物市場が開かれた。


片町
かたまち

[現在地名]島原市片町

島原城の東方、なか町の東に位置する。宝永四年(一七〇七)検地とある島原領内村明細帳では三会みえ町別当の管轄四ヵ町として「片町」がみえ、寛政四年(一七九二)島原惣町之図(長崎市立博物館蔵)では長さ八三間半・幅二間半。同年の島原大変によるまゆ山の崩壊で「片町残らず」流失したとされ(島原大変聞録)、流死者数二四一(安養寺過去帳・護国寺過去帳など)


片町
かたまち

[現在地名]下館市おつ いずみ

西にし町の西北、木戸外に位置する。寛永一六年(一六三九)松平氏入封時に建設され、同年の下館城図(田宮家蔵)に町名があり、町の東西を堀がめぐる。享保一七年(一七三二)に当町から町年寄に提出した書上(中村家文書)には「片町屋敷西側裏通、去亥春かこひ堀筋御見分之上、裏通間数御改、御用地御取上ケ候所、此度屋敷主共願上、御役所様より右御用地之所屋敷置ニ被仰付候」とある。


片町
かたまち

[現在地名]長浜市大宮町おおみやちよう朝日町あさひちよう

本町ほんまち通がよね川を越えた所にあり、米川に沿う南北の通りの東側をおもな町域とする。南東部に妙法みようほう寺があり、その西の朱印地も町域に含まれる。瀬田せた村領年貢地。慶安四年(一六五一)検地帳(川崎文書)に「妙法寺まへ」として屋敷地一三があげられ、うち明地一八。


片町
かたまち

[現在地名]伊勢崎市大手町おおてまち

伊勢崎城の東方約一三〇間、あら町東側の南北に延びる片側町。酒井氏時代からの町。ほん町の下宿しもじゆくから北に折れ、八軒はちけん町に至る町並。城下の東端にあたり、小路の東側に用水路が通り、その東は田畑である。「伊勢崎風土記」に、片町は新町新邸あらまちしんやしきとよばれたとある。寛永一九年(一六四二)の検地帳および書継文書である屋敷寸間帳(いずれも伊勢崎市立図書館蔵)によれば道幅二間、北から一番屋敷が始まり、南端の一〇番屋敷まで、ただし二番屋敷以南は新屋敷とある。


片町
かたまち

[現在地名]熱田区内田うちだ

神戸ごうど町筋より東脇ひがしわき町までの間をいい、町の長さは五〇間。享禄(一五二八―三二)の頃までは葭野であったが、その後しだいに開けて住地となったという(「名古屋市史」地理編)


片町
かたまち

[現在地名]金沢市片町一―二丁目

ほぼ北西に向かって流れる犀川の右岸に位置する。同川に直角に延びる北陸街道の両側町で本町。東は常形前どうがたまえ、西は川南かわみなみ町に続く。もと犀川は二筋に分れ、現在の流路近くと当町東側の香林坊こうりぼう際を流れていた。当町は二筋に挟まれた河原かわら町から成立し、川南町とともに中河原町とも称した(金沢古蹟志)


片町
かたまち

[現在地名]伏見区深草直違橋ふかくさすじかいばし片町

直違橋南一丁目の南に位置し、南北に走る伏見街道の東側に形成された片側町。直違橋片町が正式な呼称のようで、維新前伏見管轄図や、明治初年の町組・学区の編成表では「直違橋片町」と記されるが、寛文一〇年(一六七〇)山城国伏見街衢並近郊図には、「片町」と記されている。

片町の人家が、道路向い側の十九軒町のなかに数戸入組んでおり、複雑な飛び町をかたちづくっているのは、片町がしだいに西側へも進出していった歴史を示し、この街道沿いの町並が、東側から形成されはじめて、しだいに西側に及んだことを物語る。


片町
かたまち

[現在地名]大館市片町

けい城南側に接する武家町。元禄一七年(一七〇四)の大館城下絵図に「片町」とある。東西に走る道路に沿って形成され、道路北側は外堀。西端部は枡形になって長倉町になる。大館所預の家士が居住(大館地方史)。北上して外堀を越え、真言宗千手せんじゆ院前を経て桂城本丸に通ずる道が町の中央部から延びていた(大館城下絵図)


片町
かたまち

[現在地名]大館市十二所 十二所町

十二所じゆうにしよ町の西部に位置する。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に「片町」、幕末期の十二所士族屋敷図に「片丁」とある。東西に走る道路沿いに形成され、西はあら町、北は谷地やち町と接する。


片町
かたまち

[現在地名]本荘市片町

子吉こよし川河岸の南側に位置し、子吉川に面する側にのみ民家があったのでこの町名となったという(本荘郷土史)

明治二二年(一八八九)の畑段別八畝四歩で、その修正地価金五円八厘、修正地租金一二銭六厘(本荘町志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「片町」の意味・わかりやすい解説

片町
かたまち

大阪市都島区南端部,寝屋川右岸の一地区。かつては古堤街道に沿う堤防集落で,地名は右岸の片方のみに形成されたことに由来。 1895年,浪速鉄道 (現 JR片町線) が開通,その起点となってから大阪東部のターミナルとして発展したが,JR大阪環状線,片町線および京阪電気鉄道の交差する東方の京橋にその地位を奪われた。

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