大津宿(読み)おおつしゆく

日本歴史地名大系 「大津宿」の解説

大津宿
おおつしゆく

[現在地名]大津市京町一丁目・札の辻など

大津町に置かれた東海道宿駅。江戸より五三番目で、草津宿まで三里半六町、京都まで三里、伏見ふしみ宿(現京都市伏見区)まで四里八町の道程を継立て、また湖上五〇町を草津宿に通じる矢橋やばせ(現草津市)まで渡船する。慶長六年(一六〇一)徳川家康は東海道の主要な町村を宿場として編成、伝馬三六疋・人足三六人の常置を命じ(水口宿文書など)公用通行の際は無賃で業務に当たることを義務づけるが、当宿が水口みなくち宿(現甲賀郡水口町)・草津宿などと同じくこの年に人馬を設定したかどうかは明らかではない。前年の大津籠城戦に伴って大津町は全焼しており、宿駅負担が可能なほど復興していたとは考えがたく、むしろ地子免除を認められた慶長七年以後と想定するほうが妥当であろう。この地子免除後、人足役は大津町全体で夫高一千八七人九分一厘とされ(京都御役所向大概覚書)、これを基準に各町に人足の調達費用の負担を課した。常置人馬は寛永一二年(一六三五)までに人足一〇〇人・伝馬一〇〇疋と定められ、伝馬負担は当初馬持各人が賄っていたものの、馬持の困窮により少なくとも享保四年(一七一九)当時は人足役と同様に大津町全体の負担となった(丸屋町自治会共有文書)。なお伝馬一〇〇疋が設定されたとき、伝馬役一〇〇人のうち七〇人が地子免除の地に居住していたため、屋敷地の給付は残りの三〇人だけであった(京都御役所向大概覚書)

東海道は大津町内ではきよう町通にあたり、宿内町並は東西一六町余・南北一里余で(宿村大概帳)北国海道(西近江路)との分岐点はふだつじ(上京町)とよばれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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