大船村(読み)おおふなむら

日本歴史地名大系 「大船村」の解説

大船村
おおふなむら

[現在地名]鎌倉市大船・大船一―六丁目・だい一丁目

鷲峰山じゆぶせんより西北方に連なる丘陵の尽きようとする北西側一帯に位置し、西境戸部とべ(柏尾川)、北境を砂押すなおし川が流れ、北は笠間かさま(現横浜市戸塚区)岩瀬いわせ村、東は今泉いまいずみ村、南は小袋谷こぶくろや村・山之内やまのうち村・台村、西は岡本おかもと村に接する。戸塚とづかより鎌倉に至る道路が村内を通過する。古くは粟船、あるいは青船と記した。

吾妻鏡」によれば寛元元年(一二四三)六月一五日、「山内粟船御堂」で北条泰時の一周忌が行われ、建長元年(一二四九)六月一五日にも泰時の十三年忌に「彼墳墓青船御塔」を供養したという。


大舟村
おおふねむら

[現在地名]川西町大舟

くろ川上流にあり、北は奥田おくだ村、西は玉庭たまにわ村、東は成島なるしま(現米沢市)。天文七年(一五三八)の段銭古帳の「下長井白川より南」のうちに「七貫五百文 おほふね」とある。同二二年の晴宗公采地下賜録によれば、時田ときだ郷のうちの「大ふねゑうんいん分」が中目兵衛に下賜されている。天正四年(一五七六)八月相馬氏との戦闘の際に作成された誓紙の一二番に中目日向長政がおり、大舟の城主であった(伊達治家記録)


大船村
おおふねむら

[現在地名]八王子市大船町・みなみ野みなみの五丁目

多摩丘陵の北斜面の谷に一村をなし、湯殿ゆどの川の支流布留ふる川が流れる。西は寺田てらだ村。田園簿に村名がみえ、田三二石余・畑二一石余で幕府領。寛文六年(一六六六)検地帳(林家文書)が残る。元禄郷帳では大舟村として高一一五石余。宝永年中(一七〇四―一一)旗本建部領になったとされ(風土記稿)、享保六年(一七二一)の山之根村高改帳では建部領一一五石余とある。以後も同領であろう。「風土記稿」によれば、民家四六軒は所々に散在、水田・陸田の比は等分、水利は山間の清水を引いた。文久二年(一八六二)の組合村書上帳(水越家文書)では家数四五・男女二一二、修験一・僧二、馬七。


大船村
おおぶねむら

[現在地名]明智町大泉おおいずみ 大舟おおぶね

南西小泉こいずみ村、東は野志のし村に接する山中小村。美濃国諸家系譜の遠山氏の項によれば、天正一二年(一五八四)に没した友政の弟遠山左衛門は大船や飯羽間いいばま(現岩村町)に住したという。慶長郷帳に大舟村とあり、高一〇三石余。正保郷帳では田方八四石余・畑方一八石余。文政三年(一八二〇)の家数二〇・人数九三(「村歳代日記帳」佐々木文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android