大泉村(読み)おおいずみむら

日本歴史地名大系 「大泉村」の解説

大泉村
おおいずみむら

面積:六三・〇七平方キロ(境界未定)

郡中央北部の八ヶ岳南麓に位置し、東は高根たかね町、西は長坂ながさか町、南は高根町長坂町あか岳の頂上二八九九・二メートルから七六〇メートルまでの標高差があり、標高一一〇〇メートル以上は山林で面積の七九パーセントを占める。多くの湧水があり、川俣かわまた川・あぶら川・かぶと川・いずみ川・みや川・はと川が南流する。南部を東西に県道長沢―小淵沢こぶちさわ線が通り、北部の山地を八ヶ岳横断道が走り、この中間をJR小海線が通る。

旧石器時代の遺跡はいまのところ発見されていない。縄文時代草創期とみられる有舌尖頭器が甲ッ原かぶつつぱら遺跡から採集されたと伝えられる。また標高一五〇〇メートルほどの美し森うつくしもり地区から採取された石器も同様とみられる。早期の押型文土器は谷戸やと城の発掘調査でややまとまって出土し、甲ッ原遺跡からも少量採取されている。前期後半期の諸磯式期になると遺跡が増え、天神てんじん遺跡のような大規模な集落遺跡が出現する。ここでは諸磯式期の住居四九軒、中期五領ヶ台式期八軒が調査され、全体としては直径一五〇メートルほどの環状集落をなすとみられる。住居群に囲まれた中央部は墓壙が密集する。周辺地域にも山崎やまざき遺跡・御所ごしよ遺跡・寺所てらどこ遺跡などこの時期の遺跡が多い。中期はいっそう多くの遺跡が知られる。とくに甲ッ原遺跡は藤内式期から井戸尻式期を中心とした環状集落や、曾利式期を中心とした環状集落などから構成される複数の集落遺跡とみられており、これまでに七〇を超す住居跡が調査されている。ほかにも古林第四こべえしだいよん遺跡(藤内式期から井戸尻式期)姥神うばがみ遺跡・方城第一ほうじようだいいち遺跡(曾利式期)など、集落の構成がわかる遺跡が調査されている。


大泉村
おいずみむら

[現在地名]員弁町大泉・まつ

員弁川の北、東一色ひがしいつしき村の西に位置する。中世の伊勢神宮領として、「神鳳鈔」に「内宮大泉御厨百丁、三石」がみえ、「外宮神領目録」「外宮神領給人引付」などにも同じく大泉御厨がみえる。一方、同じく「神鳳鈔」の大谷おおたに御厨の記述には、「大谷御厨内宮三石、外宮一石五斗、六九十二月。田文云大泉大谷五丁」と記され、また式内大谷神社は当村にある。これらの関係について、「伊勢式内神社録」は、員弁川南の梅戸うめど村大谷(現大安町)を大谷御厨の跡と推定し、明応―永正年間(一四九二―一五二一)の度重なる洪水によって住民は大泉に移住し、産神の大谷神社も大泉のなが宮に合祀して大谷神社となったのであろうと考証しているが、「神鳳鈔」の記載を明確に説明しえない。


大泉村
おおいずみむら

[現在地名]富山市大泉・大泉町一―三丁目・大泉東町おおいずみひがしまち一―二丁目・大泉北町おおいずみきたまち大泉中町おおいずみなかまち大泉本町おおいずみほんまち一―二丁目・西大泉にしおおいずみ梅沢町うめざわちよう三丁目・辰巳町たつみちよう二丁目・東中野町ひがしなかのまち三丁目・堀川小泉町ほりかわこいずみちよう一―二丁目など

富山城下の南東端に接し、城下の出入口を大泉口とよんだ。いたち川が貫流し、西は小泉村など。江戸初期は加賀藩領、万治三年(一六六〇)の領地替で富山藩領となる。正保郷帳では高六五〇石余、田方四二町二反余・畑方一町一反余。


大泉村
おいずみむら

[現在地名]桜井市大字大泉

初瀬はせ川西岸、かみしよう村北方に位置する。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳に「大泉庄四町七反」とみえ、養和元年(一一八一)の大和国諸庄米送状(大東文書)には「式上郡内大泉御庄」とある。また、延応二年(一二四〇)四月の僧覚玄寄進状(東大寺文書)に「奉寄進水田事 合壱段者 大泉庄内字西坪」とある西にしつぼは小字として現存する。永仁二年(一二九四)の大仏灯油料田記録には「大泉 本地子七斗云々」と記す。

文禄四年(一五九五)の和州城上郡大泉村御検地帳(大泉の森本家文書)によると村高六二〇・七四九石(荒高三九・五石)、反別四七町四反八畝二七歩、検地奉行小堀政一となっている。慶長五年(一六〇〇)織田有楽(長益)領。


大泉村
おおいずみむら

[現在地名]南箕輪村大泉

大泉所おおいずみどころ山に源を発し、東南に流れて天竜川に注ぐ大泉川の中流の北側、南北に走る春日かすが街道に沿った街村。東方は段丘崖下のくぼ村・殿との村、北は木下きのした(現箕輪町)、西は枝村大泉新田村(現伊那市)に接する。

村名の初見は、天正六年(一五七八)の諏訪社上社の造宮所役に宮大工精進免之造宮銭次第(上諏訪造宮帳)として、「大泉之郷」とあり、合三九〇文を納めている。「長野県町村誌」南箕輪村の項に「古へ尾泉と云ひ、後大泉と改め、駅を置く、慶安二年宿を北殿村へ移す。


大泉村
おおいずみむら

[現在地名]中田町上沼うわぬま

北上川右岸の登米郡北端にあり、北・西・南の三方を山地で囲まれる。南と西は上沼村に囲まれ、北は磐井いわい東永井ひがしながい(現岩手県西磐井郡花泉町)に接し、北上川対岸は嵯峨立さがたち(現東和町)。村名の由来は、かつてこの地に泉がわいていたためという。正保郷帳に田四四貫七三二文・畑七貫八二七文とあり、ほかに同所新田一五二文がある。「安永風土記」によれば、田四七貫二九六文・畑一二貫五五文で、蔵入は五六貫二〇六文、給所は三貫一四五文、人頭八一人、家数八六、男女都合四〇二、馬四三で、小魚漁かっこ船一・作場通用船一があった。「封内土産考」に煙草の生産が多いと記される。高品たかしな城は青梅信濃守の居館で、大泉城は別名深堀ふかぼり城ともいい、深堀隠岐の居城と伝える。


大泉村
おおいずみむら

[現在地名]岩瀬町大泉

岩瀬盆地の最北西部、飯淵いいぶち村の北にあり、村の中央をいずみ川が南流し、川沿いに益子ましこ街道が通る。中世は結城氏の勢力下にあったが、江戸初期に笠間藩領となり(寛文朱印留)、のち旗本中根氏領となる(各村旧高簿)。明暦二年(一六五六)下谷したや銭座(現東京都台東区)の三谷三九郎が幕府の命で沢山さわやま金山を開いている。また宝暦五年(一七五五)には当村の袖山勝秀、堤上つつみのうえ村の藤吉らが当村と堤上村を結ぶ切通きりとおしと称する道を造っている(大泉聞書帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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