大覚寺村(読み)だいかくじむら

日本歴史地名大系 「大覚寺村」の解説

大覚寺村
だいかくじむら

[現在地名]焼津市大覚寺

八楠やぐす村の南西に位置し、南東瀬戸せと川を挟んで大村おおむら新田。村域は同川の南にも広がる。益津ましづ郡に属する。永禄一二年(一五六九)正月一七日の武田信玄判物写(判物証文写)に大覚寺とみえ、信玄は青島五郎兵衛尉に大覚寺方二六貫文などを宛行っている。また天正一二年(一五八四)八月二六日の坂本貞次・駒井勝盛連署状(原川文書)によれば、徳川氏は当地などの年寄衆に対し、軍備を整え参陣させるよう命じている。


大覚寺村
だいかくじむら

[現在地名]鳥取市大覚寺・吉成よしなり三丁目

吉成村の南東、大路おおろ川の北岸に位置し、同川の南岸に枝郷の的場まとば村がある。古くは大学寺と記したが、元禄国絵図・元禄郷帳作成時に大覚寺に改められた(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。「因幡志」は、村名はかつて寺があったことに由来し、当時民家の敷地や田圃のなかに五輪塔などが多数遺存し、「倉田社記」には台覚寺とみえると記す。


大覚寺村
だいかくじむら

[現在地名]愛東町大覚寺

大林おおばやし村の東、その村の北東に位置する。村名は村内にある大覚寺に由来する。観応二年(一三五一)足利尊氏は弟直義と「小野大覚寺」で戦っている(同年一〇月二七日「松浦治部左衛門尉軍忠状」松浦文書)。天正(一五七三―九二)末から慶長五年(一六〇〇)にかけては豊臣氏の支配下で、同二〇年か元和三年(一六一七)に彦根藩領となったと推定され、寛永石高帳では高一三八石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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