民家(読み)ミンカ

デジタル大辞泉 「民家」の意味・読み・例文・類語

みん‐か【民家】

一般の人々の住む家。
[類語]人家家宅うち家屋屋舎おくしゃ住宅住家じゅうか住居私宅居宅自宅きょ住まい住みかねぐら宿やどハウス(尊敬)お宅尊宅尊堂高堂貴宅(謙譲)拙宅弊宅陋宅ろうたく陋居陋屋ろうおく寓居ぐうきょ

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精選版 日本国語大辞典 「民家」の意味・読み・例文・類語

みん‐か【民家】

  1. 〘 名詞 〙 人民の住む家。一般庶民の住む家屋。公共建築物、ビル、旅館などに対していうが、狭義には店舗も除いて用いる。民屋。
    1. [初出の実例]「遺る所の民家は仇の為に皆悉く焼亡されぬ」(出典:将門記(940頃か))
    2. [その他の文献]〔史記‐呉王濞伝〕

みん‐け【民家】

  1. 〘 名詞 〙みんか(民家)
    1. [初出の実例]「本国寺大門の南は、十年ばかり以前迄民家(ミンケ)なりしを」(出典:咄本・軽口露がはなし(1691)一)

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改訂新版 世界大百科事典 「民家」の意味・わかりやすい解説

民家 (みんか)

民家は一般概念では庶民の住宅を意味する。しかし,民俗学や建築学の分野で使われる〈民家〉の概念はかなり限定されており,地域に密着した素材や技術を使って建設された庶民の住宅を意味する。したがって,江戸時代に支配階級であった武家の住宅でも,全国的な規範を重視した大名の居館は民家には含まれないが,庶民住宅とあまり違わない素材と技術を用いた下級武家の住宅は民家の範疇に含まれ,同様の意味で蔵や納屋,旅籠(はたご)など,庶民の生活にかかわりの深い建物も,民家の一部として取り扱う。一方,庶民の住宅であっても,外国の建築形式の影響の強い住宅,鉄筋コンクリートや鉄骨,ガラスなど,広域の市場開発をねらった素材を使用して建てられた住宅は,民家の対象から外されている。なお,庶民住宅を含めた住宅の歴史については,〈住居〉の項を参照されたい。

日本において民家が学問的な研究対象になったのは1900年ころからである。その一つは地理学の面からで,当時著しい成果をあげていたドイツの集落地理学の影響を受けたもので,28年に藤田元春が《日本民家史》を著して民家研究の先駆的な役割を果たすなど,主として屋敷や民家の形態的な比較研究の成果を積みあげている。第2は,常民の生活文化の解明に主眼を置いた民俗学や建築学の立場からの調査で,1917年に柳田国男,今和次郎らの〈白茅会〉,33年には竹内芳太郎,蔵田周忠,石原憲治らの〈民家研究会〉が結成された。《民家図集》(1921-31),《日本の民家》(今和次郎,1922),《日本農民建築》(石原憲治,1934-43),《京郊民家譜》(1931),雑誌《民家》(1936-41)などの刊行を通じて,全国の民家の平面や形態が紹介され,類型化が行われた。45年以後,民家の発展を社会経済の発展の中でとらえ直そうという研究が行われたが,軸になる民家の歴史的変遷が不明確なため,行き詰りをきたした。この問題に新たな方向づけを行ったのは太田博太郎を中心にした建築史研究者で,民家遺構に残る改造の跡を調べ,その建物の建設当初の形式を比較することにより,民家遺構の具体的な発達を明らかにした。この方法は60年,〈民家調査基準Ⅰ--復原的調査および編年〉(《建築雑誌》)で紹介され,以後全国各地の民家の史的調査が急速に行われたが,65年ころから民家の建替えが急速に進み,その結果,以後の研究は保存と個別民家の技法や意匠の解明に向かいつつある。

民家は大別して農家と町家に分けられる。町家は本来,商工業に従事した商人,職人の住宅を意味しているが,江戸時代には,それ以前から商業中心の集落を営みながら身分は百姓であり,村方の支配に置かれた例も少なくないので,その限定はむつかしい。そこで形態的に,主屋が道路に面して建ち,隣家との間隙がごく少ない形式で建てられた民家を町家と呼んでいる。また,漁業に従事したり,山間に立地する家は,農家と形式的に異なった特徴をもつものが多いところから,漁村住宅,山村住宅と区別して扱うこともある。

 民家の外観的な特徴は,主として屋根の形式で分類される。まず屋根の形では,切妻(きりづま)造,寄棟(よせむね)造,入母屋(いりもや)造の種別がある。このような形式の屋根が一棟だけで構成されているものを直屋(すごや)と呼び,別棟が組み合わされる形式を西日本では角屋(つのや)と呼び,東北地方では曲り屋(岩手県など)や中門(ちゆうもん)造(山形県,秋田県など)と呼ぶ。また,棟が分かれていながら,軒を接し,空間的には一連のものとして使われる形式を分棟(ぶんとう)型民家と呼んでいる。屋根葺き材の種別では,茅葺き(かやぶき)(藁葺き),杉皮葺き・板葺き(ともに石置屋根),桟瓦(さんがわら)葺き,本瓦葺きがある。外壁の種別では柱を外に見せた真壁(しんかべ)式と,の中に柱を塗り籠めた大壁式に大別される。真壁式は東日本,大壁式は西日本の民家に多い。特殊な外壁として茅壁,土蔵造がある。

茅葺きや板葺き屋根では,棟部分が構造的な弱点になるため,補強を兼ねて装飾的に扱うことが多い。それが民家の地域的な特徴として理解されることもある。茅葺き屋根では,棟を杉皮で覆い,竹などで簀巻(すまき)にするのが普通であるが,棟の上部に反りをもたせたもの(出雲地方),押えとして〈くら〉〈うま〉などと呼ばれる交差した木を置くもの(高千穂地方,丹波地方)などがある。また茅の束を横に渡したものや,〈くれぐし〉といって板の上に土を盛ったもの(関東地方),雁振(がんぶり)と呼ぶ瓦を置いたもの(徳島県,佐賀県),箱棟(はこむね)と呼ぶ小屋根を置いたものなど,いろいろな形式がある。棟端の飾りとしては,〈みんのす〉という馬の耳のような飾りをつける佐賀県の民家,板葺き屋根の端に〈烏威(からすおどし)〉と呼ぶ独得な飾りをつける長野県松本平の民家などがある。また,切妻造の茅葺き屋根の妻面を保護するため,屋根の端を瓦で押さえた高塀(たかべい)造(大和棟(やまとむね))や,屋根端に卯建(うだつ)/(うだち)と呼ばれる小棟を設けた町家などがある。また,瓦葺き屋根の民家や多雪地帯の民家では,囲炉裏(いろり)や竈(かまど)の煙を外へ出すため,屋根の一部を切り上げたり,棟をまたいだ小屋根(越屋根)を設けるが,これも屋根の装飾を特徴づけている。

民家は土間と畳または板の間の室から成り立っているが,その配列は多種多様であり,全国的な系列化をすることはむつかしい。一般に室の部分は居間,寝間(ねま),座敷を備えているのが普通であり,この3室で構成されたものを三間取(みまどり)あるいは広間型(ひろまがた)と呼び,これに1室加わったものを四間取(よつまどり)と呼ぶ。これを基本的な間取りとしている。

 現存する民家は独立した石の基礎の上に柱を立てているが,江戸時代には掘立柱の家も多かった。床は板張りにするが,竹簀の子を張った建物も全国的に分布し,北陸や東北では1900年ころまで,土間に茅や籾がらを敷き,その上に筵(むしろ)を延べて生活していた家も多くあった。上部は縦横に梁(はり)を渡して固め,茅葺き民家では丸太を合掌(がつしよう)に組み(さす組),板葺き・瓦葺き民家では束(つか)を立てて屋根を支える(和小屋)。座敷以外は天井を張らないことが多く,これらの梁組みは力強い構成美をつくり,意匠上の特徴にもなる。

現存する民家遺構で最も古い建物は千年家(せんねんや)として知られる箱木家住宅(神戸市,農家)で,室町時代の中期と推定され,ついで古井家住宅(兵庫県宍粟市,農家)が室町末期と考えられる。建設年次の判明している民家遺構で最も古いものは,町家系では1607年(慶長12)の栗山家住宅(奈良県五条市),農家系では1650年(慶安3)の石田家住宅(京都府南丹市)である。17世紀の後半になると,建設年次のわかる民家も多くなり,当時の民家像も明確になってくるが,17世紀前半以前の民家遺構はごく少ない。

(1)南西諸島の民家 鹿児島県の南西諸島や沖縄の民家はウフヤ(主屋棟)とトングヮ(炊事棟)が別棟になっており,これに高倉と家畜舎を配して屋敷を形成する。茅葺き屋根の場合は寄棟造とし,竹の簀巻を笄(こうがい)にしっかりと縛りつける。石垣や防風林に囲まれ,群棟で構成されるのが特徴である。またこの別棟型の民家は,1850年(嘉永3)ころには薩摩半島から熊本県南部にわたって分布していた。(2)分棟型 熊本県南部から鹿児島県にかけて,居室棟と土間棟を別屋にし,軒を接して雨樋(あまどい)をかけ,内部の空間は一体化して使う形式の民家が分布し,分棟型と呼ばれている。同型式の民家は天竜川下流域(静岡県),千葉県,茨城県,栃木県などの各地にも存在し,民家の系譜を知る上で注目されている。(3)くど造 熊本県北部から佐賀県の有明海沿いに見られるもので,主屋の裏手に2棟の角屋(つのや)を軒を接するように出し,雨水を樋で受けて,内部を一屋に使う形式の民家である。名称の由来ははっきりしない。棟端に〈みんのす〉と呼ばれる独得の飾りをつける。(4)椎葉の民家 宮崎県東臼杵郡椎葉村を中心とする阿蘇山の南東の山間部には,土間が狭く,3室の居室が一列に並び,前面1間通りを座敷縁とし,背面に戸棚や床の間を備えた細長い平面の民家が多い。このような平面の民家は,奈良県の十津川や静岡県の井川などにも見られる。椎葉の民家は棟押えに長い栗材の〈くら〉を使うところに特色がある。(5)八棟造 瀬戸内海沿岸から近畿地方にかけて,主屋から角屋をいくつも出し,屋根が複雑に架かるところから八棟造と呼ばれる豪農の家が多い。(6)大蓋造 徳島県の吉野川流域では,〈むくり〉をもった寄棟造茅葺き屋根のまわりに,1間以上の広い瓦葺きの庇(ひさし)をつけた民家が多く,大蓋(おおぶた)造(四方蓋造)と呼ばれている。(7)千年家 兵庫県の裏六甲から播磨にかけて,江戸時代以前に建てられた古民家が多くあり,千年家と呼ばれている。合掌を使わず,束で棟木を支える構法が特徴的である。箱木家住宅と古井家住宅が現存する。(8)高塀造 大阪府の南河内から奈良県にかけて,妻に三角形の壁を立て,小幅の瓦葺き屋根で切妻造茅葺き屋根の両端を押さえた形式の民家が多く,高塀造とか大和棟と呼ばれている。(9)湖北地方の民家 琵琶湖の北岸地方には,棟端に割り竹を扇状に飾った民家が多く,古くは居間を,土間に籾がらを置き筵を敷いた土座にしていたことで名高い。(10)合掌造 庄川上流地域の五箇山(富山県)や白川(岐阜県)地方に見られる。茅葺きの切妻造,または入母屋造で巨大な合掌(叉首(さす))を組み,妻を大きく見せ,屋根裏に簀の子天井(アマ)を二重,三重に設け,妻面から採光する。養蚕を大規模に行うため,屋根裏が発達した(二階)。(11)甲州の民家 山梨県の塩山付近には切妻造茅葺きの農家が多く,養蚕農家では中央部の屋根を一段高くした独得の形式をもつ。(12)かぶと造 関東地方北部の養蚕農家では,屋根裏の採光のため軒先の一部を高く切り上げており,〈かぶと造〉と呼ばれる。(13)石置屋根 東日本の山間部の民家は,榑板(くれいた)で屋根を葺き,横木で押さえ,川原石を載せて動かないようにする。《洛中洛外図》にも見えるように,石置屋根は町家でも古くから広く行われていた。(14)本棟(ほんむね)造 長野県の南半部一帯に分布する上層農家の民家形式で,板葺きの妻を大きく見せ,棟端に烏威と呼ばれる独得の飾りをつける。(15)曲り屋 宮城県北部から岩手県南部の農家で,土間の前端に馬屋の棟を突き出させたL字形の平面に,連続して屋根を葺いた形式。(16)中門造 山形・秋田・福島県などの農家では,主屋から突き出したところを中門と呼ぶ。突き出した部分に大戸口を構え,土間への通路をとり,馬屋,便所などを設ける型が多い。(17)高八方(たかはつぽう) 山形県の田麦俣地方の養蚕農家で,茅葺き屋根の四方の軒を切り上げた独得の形式をもつ。
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ヨーロッパの民家の大半は,分厚い壁と勾配の強い屋根の組合せである。石や煉瓦,泥などで固めた陸(ろく)屋根は地中海沿岸の一部にみられるだけできわめて少なく,また屋根と壁と一体となった円錐形住居やテント式の家屋も普通はみられない。そこで,民家の形を分類する場合,ヨーロッパでは,まず住居の壁にどのような材料をどう使っているかが,第一の指標とされる。屋根の形や材質,住居の平面構成はその次の問題となる。歴史的には,細い枝や木を芯(しん)とし,草やコケで覆った編壁と,その芯材の上に泥を塗った土壁の住居が最も原初的なものとして存在したが,木材の豊かなヨーロッパの北半分では,前者の伝統がやがて柱や梁材を用いた木造の架構式や軸組式,または材木を横に使った木造組積式の住居に変わり,森林資源に恵まれない地方,特に地中海沿岸や西ヨーロッパでは,土壁の伝統ははやくから煉瓦や石積みの壁に変わっていった。北西ヨーロッパでも,都市文明が発達するにつれ,住居の不燃化や木材資源の不足が深刻な問題となり,木軸に煉瓦壁や塗壁を組み合わせた混合構造の壁が盛んになった。現代のヨーロッパの都市の大部分では,こうした木造の住居が衰退して石造や煉瓦造の多層建築となっているが,東ヨーロッパや北ヨーロッパ,そして中央山岳地帯の山村には,まだ昔ながらの木造家屋が残り,地中海沿岸や西ヨーロッパの地方色豊かな石造の集落とともに,ヨーロッパの民家の伝統を今日に伝えている。

日本の古い民家のように,太い柱を桁(けた)や梁(はり)でつなぎ,開口部を広くとった木造の家屋は,ヨーロッパでは南ドイツのシュワルツワルトからスイス北部にかけての大規模な農家に代表される形式である。高い棟持柱を立て,広い屋根裏をもつ藁葺きの寄棟屋根を,居住部分だけでなく畜舎や納屋にまたがって架けるのが特徴で,二階に居室がある場合は〈かぶと屋根〉になる。この柱と梁の建物は古くは東ヨーロッパにも多く,今でもドナウ川流域やカルパチ山脈の農家の納屋や乾草小屋に用いられている。ドイツ北部やオランダ東部には,棟持柱を用いない代りに,太い柱を2本ずつ立てて梁でつなぎ,そこに急勾配の合掌屋根を架けた寄棟の大きな農家がある。6~10mに及ぶこの梁間の両側に,3~4m幅の細長い部屋を配した3廊構成の平面で,居住部分が軸組式やれんが造になった今日でも,この柱を主体とした広い空間は,一階を畜舎に,つなぎ梁の上の小屋裏は乾草置場にと,酪農地帯に欠かせない構造として用いられている。

北西ヨーロッパの森林は,長くて軟らかい針葉樹でなく,短くて硬い広葉樹で占められていた時期が長かったため,この地方の木造民家は太い独立柱に頼る構造でなく,土台の上に短い柱を何本も立て,筋違(すじかい)や足固めで補強しながら柱間を壁で埋めていく軸組みの手法が発達した。特にライン川の流域からオランダ,フランス,そしてイングランドへかけて,柱と梁に角材を用い,その幾何学的な軸組みを露出させることで壁のデザインを引き立たせるハーフティンバーが定着した。

 この構造では,壁の枠組みさえ強固にすれば何層でも重ねられ,しかも上階を張り出すことも可能なので,土地の狭いドイツの都市部では3階以上の住居が普通となり,なかでもニーダーザクセンヘッセンシュワーベンなどの高層の木造民家が有名である。壁面をこまかく分割し,装飾的な間柱(まばしら)や筋違を多用するドイツの軸組式にくらべ,オランダやスペイン北部,フランス南部の山間部にある軸組式の木造民家は,軸組みの間隔がひろく,その間に煉瓦壁や塗壁を適当に配することでそれぞれ地方色豊かな壁の表情を生みだしている。しかしフランスでもルーアンから北,そしてイングランドにかけてのハーフティンバーでは,間柱の間隔が極端に狭くなり,垂直性を強調したデザインになることが多い。もともとイギリス南部の中世の支配階級の住宅は,中央に大きな吹抜け部分をもつ〈ホール型〉の平面構成と,一階から棟木までに達する2本の湾曲した柱(クラック・トラス)をもつ伝統があり,軸組式になってもはじめは2階建てであったが,中世末期からチューダー朝(1485-1603)になると,都市にも大陸にみられるような3階建て以上の木造が建てられた。

 これら北西ヨーロッパの軸組式民家では,四周の壁の上端を水平の桁や小屋梁で固め,その上にこまかく合掌材を置いた急勾配の小屋組みが普通である。細長い平面の建物では,中央に柱を必要としないこの方法を採用すると,小屋裏が居室や収納場所に利用でき,採光や通風のためには寄棟よりも切妻屋根のほうが都合がよい。中央ヨーロッパの都市だけでなく,オランダからポーランドにかけての港町で,道路や運河に面して間口の狭い家が建ち並び,切妻の破風(はふ)がそびえているのは,このような木造軸組式の構造原理が,煉瓦や石造の立面になっても,伝統的な形として継承されたからである。なおバルカン半島南部やトルコ北部には,間柱を多用し,筋違で補強した軸組式の民家が多く,板壁や塗壁の2階建てに瓦葺きのゆるい寄棟屋根がのるのが特徴である。

ノルウェーやスウェーデンの南部,フィンランドからロシアの準平原にかけての伝統的な民家は,長い針葉樹林をせいろう(蒸籠)状に横に積んだ組積式の壁構造である。カルパチ山脈の南と北,すなわちポーランド南部からチェコスロバキアルーマニア北部とウクライナ西部もこれと同じ組積式であるが,南に下るにしたがってカシなどの広葉樹材も土台に用いるようになり,校木(あぜき)の断面も円形や楕円から四角や長方形に変わっていく。さらにこの組積式の民家は,オーストリア東部からチロル,スイス南部,イタリア北部,そしてフランス南東部のアルプス高地に色濃く残り,ヨーロッパの山岳地帯には欠かせない木造民家の伝統をかたちづくっている。

 北ヨーロッパやロシアの民家の規模は比較的大きく,屋根もゆるい切妻であり,その広い妻面を南面させるなど,スイスやチロルの民家との共通点は多い。しかし,カルパチ山脈の組積式の民家は,建物の間口が5~7mの細長い平面をもち,その上に急勾配の切妻か入母屋の屋根をのせ,建物の長軸を道路に直角に置くという特徴があり,これらは中世末期,西からのドイツの植民の影響によるものといわれている。屋根材は,アルプスに石版屋根や石置きの板葺き屋根が多いのにくらべ,東ヨーロッパでは杮葺き(こけらぶき)や長板葺き,それに藁葺きなどが圧倒的に多い。元来このせいろうの壁は,住まいだけでなく倉庫に使用された歴史が長く,スカンジナビアをはじめ,スイスやフランス,そしてスペインの山地帯では,いまだに高床状の柱や束の上にネズミ返しの石を載せ,その上に太い校木や厚板を組んだ穀倉がみられる。ただし近年の木材不足の影響で,これらの付属建物のみならず住居の場合も木材以外の壁との併用が盛んで,一階を野面石の石積みとし,二階の主要部分だけを木壁組積式にした民家がアルプス山脈には特に多い。ユーゴースラビアやトルコの山地にも,このようなせいろう状の壁構造の民家や作業小屋が点在している。

ヨーロッパには,かつて編壁や土の塗壁の伝統があったドナウ川流域のように,土の壁が煉瓦積みの壁に置き換えられていく場合と,オランダや北ドイツのように,元来は木造軸組式であった建物が不燃化されていく過程で煉瓦造や石造になっていくもの,それに東ヨーロッパやチロルのように,木造組積式の壁が材料不足のために煉瓦造やコンクリートブロック造に変わった場合や,はじめは野面石を空積み(からづみ)していた段階が,やがて要所要所に切石を配しながら,その内側にモルタルなどの充塡材を用いて外形を整えていったフランスやイタリアの例など,さまざまな石造や煉瓦造の形がある。しかしもともと土壁の伝統があった地域では,どのような組積造でもしっくい(漆喰)やモルタルを塗った仕上げが好まれ,地中海沿岸やハンガリーの民家の白い壁はその代表といえる。それに反し,木造,特に軸組式の伝統が強い地域では,オランダやイギリスのように石や煉瓦の積み方をそのまま表面仕上げとする傾向が強く,さまざまな化粧目地(めじ)のとり方が発達した。またこの軸組式の木造圏と接するフランス北部の石造民家の屋根は,かつては茅葺きや藁葺き,現在はスレート瓦葺きの急勾配の切妻が多く,その三角形の破風は,石積みの壁で立て上げるにしても,やはり木造小屋組の強い影響下にある。しかし,フランス南部のプロバンスより西,さらにスペインの南部からイタリア半島にかけての民家は,ゆるい勾配の丸瓦葺きの屋根で束立ての小屋組みが主流で,しかもその平面の形は不整形がますます多くなってくる。これらの地方には,古くから円形や長円形の平面をした住居があって,円錐形の石屋根トルーロtrulloをのせた南イタリアの石壁の民家や,サルデーニャの民家にその伝統は受け継がれている。

アドリア海を越えてバルカン半島に至ると,屋根の形は寄棟が増し,破風のついた石造の民家はますます少なくなる。家屋は連続して建てられることがなくなり,石造や木造の家屋は離ればなれに独立するか,門扉を備えた長い石や煉瓦の塀で囲まれることになる。この塀をめぐらす敷地割の考え方は,南ヨーロッパだけでなく,ドナウ川中流域のチェコスロバキアやハンガリーの農村部にまで及び,さらにウクライナやルーマニアの民家の木造の塀や門のつくり方にも深く影響を与えている。ドナウ川下流には最近まで半地下式の住居があったが,現在は少ない。しかし,石造の地下室(セラー)をつくる技術はラテン系諸国に営々と伝えられ,特にブドウの収穫とワインの製造には欠かせない施設となった。またこの地下室を含む石造の多層住居と,その前面に吹放ちの回廊または柱列を配し,上階にバルコニーをつけるデザインは元来は東方のもので,地中海沿岸からベネチアやイタリア西部を経て,アルプス以北の都市住居に伝えられていった。片流れの屋根は,ローマ時代から中庭をもつ地中海沿岸の石造民家には欠かせない手法であったし,一方,古代ギリシアに代表される前室つきの細長いメガロン式の住居の平面は,その切妻屋根と方向性のある配置とともに東ヨーロッパの木造住居の伝統と深く関連している。

 このようにヨーロッパの住居の形態は,地域ごとの自然環境や民族ごとの慣習の違いによって決定されただけでなく,古くからの文化の交流や技術の伝播によって,東と西,北と南の間にさまざまな発展の段階があった。このことは民家の平面構成と配置,壁や屋根の構造,材料の選択などの歴史にうかがえるのである。
住居 →石造建築 →木造建築 →煉瓦造建築
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「民家」の意味・わかりやすい解説

民家
みんか

庶民の住まい。歴史的な庶民の住まいをさすことが多い。狭義には江戸時代までの農家をさし、広義には江戸時代までの農家と町屋、そしてその伝統を残している明治以後の農家と町屋を含めるのが普通である。庶民の住まいでも、現代的な農家・町屋や、都市住宅は民家とはいわない。昭和の初期に、建築家たちが地方に残っていた古い農家を尋ね歩いて、美しくそして地域を代表するような家を探し出し紹介している。同じころ広まった柳宗悦(むねよし)を中心とする民芸運動と相まって、美しい古い伝統的な民家が脚光を浴びることになった。

[平井 聖]

農家の歴史

現存するもっとも古い遺構は、室町時代のものである。兵庫県にある古井家住宅と箱木家住宅で、千年家(せんねんや)とよばれている。軒先が低く、屋根が覆いかぶさった、素朴な姿を伝えている。

 室町時代以前の農家は残っていないが、唐古(からこ)遺跡(奈良県)のような竪穴(たてあな)住居の集落が、弥生(やよい)時代の遺跡としてあちらこちらで発掘されている。弥生時代に稲作が伝えられたとき、稲作とともに住まいとして、床が地表面から1メートルほど高い高床(たかゆか)住居が伝えられたと考えられる。そのような住まいの形式は、北九州や瀬戸内海沿岸地域で発見されている。稲作は、日本にもたらされてから短期間に関東地方の北あたりまで広まったが、それらの地域では高床の建物は倉庫だけで、引き続き住まいは竪穴住居であった。したがって、弥生時代になっても、住まいとして広く使われていたのは竪穴住居で、平面は、隅の丸い四角のもの、丸に近いもの、六角形のものなど地域によって変化がみられた。

 そのほか登呂(とろ)遺跡の住まいのように、構造形式は竪穴住居とまったく同じでも、実際には周囲に土を盛っていて、生活面はほとんど掘り下げられていない平地住居の形式もあった。稲作をするようになると、水田をつくるのに適した低湿な土地に住まいをつくることになって、湿気の関係で竪穴住居のように掘り下げることができなくなり、平地住居に変わるか、竪穴住居の床面に木の枝や藁(わら)などを敷いて生活していたことが、発掘の成果から明らかになる場合がある。

 古代・中世の農家についてはほとんど史料がないが、絵巻物や屏風(びょうぶ)に描かれた絵の中に、わずかではあるが農家らしい建物が認められる。鎌倉時代に描かれた『信貴山(しぎさん)縁起絵巻』では、都から信貴山に向かう途中の田園に板葺(ぶ)き切妻屋根の農家が見られる。同じ鎌倉時代に描かれた『一遍上人(いっぺんしょうにん)絵伝』に描かれた農家は、多くは一棟ではなく、幾棟かの建物から構成されている。絵巻物のほかに、室町時代になると京都を描いた『洛中(らくちゅう)洛外図屏風』に、土塀を巡らし幾棟もの建物から構成された洛外の農家が描かれている。

 江戸時代に入って、関東地方の宇都宮近郊の農村のようすが、徳川将軍が日光の東照宮に参詣(さんけい)したときに、家来たちの宿泊のために村中の家の平面図を書き出させた史料から、明らかになる。それらのうちの18世紀の史料をみると、当時の農村は20坪(約66平方メートル)前後の家がもっとも多く、4~5坪の家もあり、10坪に満たない小さな家も多かったのに対して、大きな家はわずかであったことや、現在は太平洋岸地帯にだけ残る竈(かまど)のある土間の部分を別棟にして母屋から離した分棟型の農家が、18世紀には海岸線から遠い宇都宮近郊にもたくさんあったことがわかる。

[平井 聖]

農家の形式

もっとも古い農家の遺構である室町時代の古井家住宅では、開口部の少ない姿が復原されている。内部も梁(はり)などの小屋材だけでなく床板や柱もちょうなや槍鉋(やりがんな)で仕上げ、台鉋は使われていない。

 江戸時代に、農家はそれぞれの地域の風土や産業によって、特色ある形をつくりだした。基本となるのは、長方形の平面に寄棟や切妻の屋根をかけた形式であるが、養蚕のために切妻の屋根が大きく発達した飛騨(ひだ)の合掌造や、大きな切妻の屋根の中央部を切り上げた甲州の民家の形式があり、また厩(うまや)を取り込んだ東北地方の曲屋(まがりや)や中門(ちゅうもん)造、勾配(こうばい)の緩い大きな切妻屋根と破風(はふ)の上につけられた雀(すずめ)踊りを特徴とする本棟(ほんむね)造、奈良盆地を中心とする大和棟(やまとむね)、九州北部のくど造などさまざまな形式がみられる。

[平井 聖]

農家の間取り

古い農家は、間取りが単純である。そして規模もそれほど大きくない。18世紀ごろになっても小さい農家は単純な間取りで、まったく間仕切のない一部屋の場合もまれではない。江戸時代のなかばを過ぎても、家全体が一部屋の土間で、必要に応じて部屋の半分ほどに籾(もみ)を敷き莚(むしろ)を重ねただけの家もあった。しかし一般的には、建物の半分ほどを土間とし、あとの部分を土間に面する大きな板敷きの部屋とその奥の小さな二部屋とに分けた広間型の平面から、板敷の床のある部分を田の字型に四部屋に分けた四間取り型(田の字型)へと発展している。そのほかの複雑にみえる平面も、ほとんどが四間取り型の床上部分にさらに部屋が加わって複雑になったものや、土間の部分に厩などが設けられて複雑になったものである。

[平井 聖]

農家の構造

日本の農家の構造には、基本的に扠首(さす)によって棟木を支える架構と棟束(むねつか)によって棟木を支える架構とがある。農家は室町時代より古い遺構がないうえに、絵画などの史料では架構を確かめることがほとんど不可能で、いまのところ、これらの架構の発展過程や、地域的特色などを明らかにすることはできない。しかし、この両架構形式ともに、古代の社寺建築に用いられているところから、農家においても古くから使われていた架構形式であったと考えてよかろう。これらの2種類の架構形式のほかに、和小屋とよばれている架構形式も使われている。この架構形式は、基本的には棟木を梁の上に立つ束が支えているが、棟木のほかに母屋もそれぞれ梁の上に立つ束によって支えられ、それらの束を縦横に貫(ぬき)で固めていて、整然と組み上げられた立体的な格子状の架構が特徴となっている。江戸時代後期には、この和小屋が主流になる。

[平井 聖]

町屋の歴史

町屋は農家と違って道路に面して軒を連ねて建っている。古代の都のうちで町割のようすがわかるのは平城京である。平城京では、京内が道路によってほぼ40丈(400尺、約120メートル)の正方形の区画に分けられていたが、町屋の地域ではこの区画をさらに東西に二分、南北に八分して、16分の1を一戸の基準としていた。平安京では、40丈四方の正方形の区画の中央に南北の道路があり、この道路で二分されたそれぞれをさらに東西に二分したうえで、南北に八分していた。このように区画すると、一つの敷地の間口は5丈(約15メートル)となるが、また、間口はその半分くらいで、平安時代の末には敷地はさらに細分されたと考えられる。『年中行事絵巻』などに描かれている町屋をみると、その構造は切妻平入(ひらいり)の母屋の前後に庇(ひさし)を加えた形式で、間口の一方に寄せて入口を設け、入口の側は奥まで土間で、道路に面した庇の部分も土間であった。母屋の一部は板床が張られ、壁で囲まれた塗籠(ぬりごめ)があった。古代の町屋は敷地が比較的広く、裏で畑をつくり野菜を栽培していた。

 中世の京の町の状況は、絵巻物と『洛中洛外図』屏風から知ることができるが、基本的には平安時代の町屋の構造・平面を踏襲している。時代が下るとともに二階建てがみられるようになる。『洛中洛外図』屏風が描かれた室町時代末には、周囲に町屋の建っている区画内の空地をほとんど仕切らず、その空地に共同の便所や井戸を設けている。

 近世に入って17世紀なかばころになると、幕府の本拠である江戸では町が繁栄し、街角に城郭風に外壁を白く塗り籠めた三階建ての町屋もみられるようになる。町屋の屋根は、平安時代以来、板葺きが基本で、通常長板を重ねて葺いた上に押さえの桟をのせ、この桟に石や比較的大きな枝の重石(おもし)をのせていた。所によって短い板で葺く所もあり、桟なしに石を置いていた。近世になると本瓦(がわら)や桟瓦の瓦葺きが一部の先進地域でみられるようになるが、寒冷な地域では塩焼瓦のような釉薬(ゆうやく)のかかった瓦ができるまで瓦葺きは技術的に無理であった。また、屋根の形式は普通、切妻平入で、伊勢(いせ)や平田(島根県)などのように妻入(つまいり)の所もある。

[平井 聖]

町屋の間取り

町屋の平面も細かくみれば地域的な特色があるが、基本的には平安時代以来間口の一方によって入口を設け、その内が普通奥まで通ずる通り庭とよばれる土間になっている。部屋は土間に面して表から三室を配し、道路に面する表の部屋を店としている。規模が大きくなると部屋を二列に配するようになるが、ほかに道路に面して土間の反対側にも部屋を設けたり、裏の敷地に主屋から離れて部屋や土蔵を設けたりするようになる。

 江戸でも初めはこのような形式の平面構成であったことが『江戸図屏風』に描かれた町屋からわかるが、時代が下ると通り庭のない平面が一般的になり、隣との間の路地か裏の路地から勝手の土間に入るような造りに変わっている。二階は道路に面した表が低いので、表側を物置のような使い方とすることが多く、いちばん奥に座敷を設ける程度である。

 江戸時代の後期にもなると、商人たちの経済力が強くなるにつれて、江戸の繁華街には規模の大きな町屋がつくられるようになり、そのようすが浮世絵や名所図会などに描かれている。

[平井 聖]

民家の遺構と保存

江戸時代につくられた農家は全国各地に残っているが、さらに古いとされる民家は、室町時代の末ごろにつくられたといわれている二棟である。もっともそれらの農家は、現在までそのままの姿で伝わっているのではなく、生活の変化とともに改造や増築が繰り返されているから、現状をよく調べてわかる限りの復原作業を行ったうえでないと、建てられたときの姿を知ることはできない。

 社寺建築や城郭については、戦前から古社寺保存法があって、価値ある建物の指定や保存のための修理あるいは復原工事が行われてきたが、民家は、戦前には民芸的な価値がわずかに認められていただけで、社寺建築のようには考えられていなかったので、重要文化財に指定されたものはほとんどなかった。戦後になって価値観が変わり、住宅にも芸術的あるいは文化的な価値が認められるようになって、民家も重要文化財として文化財保護法による指定が行われるようになった。

 戦後の開発や山間部の過疎化によって、古い民家は急速に消滅していった。そこで、開発によって取り壊されることになった民家を事前に重要文化財に指定して保護したり、民芸運動によって脚光を浴び広く知られるようになった典型的な民家が指定されることになった。また、建築史学の立場から地域的に特色をみせる民家をとらえ、数多くの建物を調査したうえで典型的な何棟かを拾い上げて指定することも行われている。

 しかし、民家が失われていくスピードが早く、全国的にすべての地域について保存すべき民家を緊急に探し出す必要があると考えられるようになり、文化庁は県ごとに民家の緊急調査を実施した。調査の結果から、地域的な特色を備える代表的な民家が、重要文化財に指定されている。

[平井 聖]

町並み

文化財としてこれまで指定されてきた建造物は個々の建物であって、民家はそれがいくつか集まってできた町並みは指定の対象とはされなかった。町屋の続く町並みは、町並みを形成するすべての町屋が重要文化財として指定するに値するとは限らないので、これまでの方法では町の雰囲気を保つことはむずかしかった。しかし現在は、町並みを保存の対象とすることができるようになり、地方自治体において保存のための条例を制定し、対策を講じたもののなかから、国は重要伝統的建造物群保存地区を選定している。

[平井 聖]

外国の民家

中国

中国大陸はたいへん広いので多くの民族が存在しさまざまな住まいがみられるが、もっとも多くそして中心となる民族は漢族である。漢族の住まいの形式は四合院(しごういん)式とよばれ、切妻の四棟の建物が院子とよばれる中庭を囲んでいる。屋内は土足で生活し、寝るのに牀(しょう)(床)という寝台、暖房にはかんを使っている。歴史的には、袋穴形式や堅穴形式などの住居が半坡(はんぱ)遺跡(西安(せいあん))など多くの遺跡で発掘され、漢代の墓から出土した家形の明器(めいき)が数多く知られている。現代でも地域によってさまざまな形式がみられ、特殊な例としては黄河流域などでつくられている窰洞(ヤオトン)住居や、大家族が集まって住むための巨大な円形あるいは方形の客家(ハッカ)の住居のようなものがある。

[平井 聖]

朝鮮半島

木造の柱梁(ちゅうりょう)構造で土壁を塗り、藁屋根が一般的であった。内部は炊事等の場である土間のほかは、壁でいくつかの部屋に仕切られている。それぞれの部屋は、油紙を貼(は)ったオンドル床と、大引(おおびき)にあたる材を現し、その間に短い板を渡して張った板張りの床で、土足を脱いで生活している。開口部は、板扉と、縦横に細い桟を組んで紙を貼った障子のような建具を肘壺(ひじつぼ)で吊(つ)っていた。平面は床のある部分を田の字型にし、これに土間をつけていて日本の四間取りと似ているが、オンドルのある部屋は閉鎖的である。屋根の藁葺きは縄で押さえ、棟をつくらず藁を編むようにしている。近年、政策によって藁屋根は少なくなり、セメント瓦等の瓦葺きが多くなった。農村部の上層民家や都会の民家は、瓦葺きで主屋棟と副屋棟から構成されているのが普通である。主屋棟は主人の住まいで表にあり、オンドルのある部屋のほかに、夏のために板床の部屋がある。副屋棟は、婦人を中心とする人々の生活の場である。瓦屋根は、一般的に軒反りをもち、円垂木(たるき)を隅扇に配している。

[平井 聖]

東南アジア

地域によってさまざまな変化がみられるが、雨期に雨量が多いところから、基本的には木造の高床構造で、屋内に炉をもっている。炉を別棟にしている所や、水上に杭(くい)で支えた木造の長い床をつくり、その上に長い家をつくって何家族もが暮らす所もある。形の変わったものでは、インドネシアのトラジャの反り上がった大きな切妻屋根が、象徴的である。同じアジア地域でも、奥地のネパールでは、都会の町屋はれんがでつくられ、台所が3、4階建ての最上階にある。

[平井 聖]

中近東

日干しれんがや土で壁を積み、木の梁をかけて土を塗った平らな屋根をつくる。壁に小さな穴をあけて窓としている。エジプトでは、古代から家の壁を積むために日干しれんがをつくっていたことが、壁画から明らかになる。このような家のほかに、遊牧民族が生活する毛織物の布を張ったテントの家もある。また、トルコでは、方形平面の1、2階ほとんど同面積の二階建てが多い。二階には一部張り出した部屋があって、外観を特徴づけている。居間では靴を脱いで生活している。

[平井 聖]

ヨーロッパ

一般的に石やれんがで壁を築き、屋根を瓦あるいはスレートで葺くが、地域によって木造である。木造の場合、ヨーロッパ北部やイギリスでは柱梁構造で厚く壁をつけたハーフティンバリング形式となり、スカンジナビアやスイス山間部のようなとくに寒冷な地域では校倉(あぜくら)造である。

 近年各国で全国的な民家の調査資料が出版されている。個々の民家を現地で保存するほか、移築して民家野外博物館も各地でみられる。そのほか、町並みや町全体の保存・修景事業も盛んに行われている。

[平井 聖]

『関野克監修『日本の民家』全8巻(1980~81・学習研究社)』『文化庁監修『民家のみかた調べかた』(1982・第一法規出版)』『伊藤鄭爾著『中世住居史』(1958・東京大学出版会)』『伊藤ていじ文・二川幸夫写真『日本の民家』(1980・エーディーエー・エディタ・トーキョー)』『川島宙次著『滅びゆく民家』全3巻(1973~76・主婦と生活社)』『伊藤ていじ著『民家は生きていた』(1963・美術出版社)』『吉田靖編『日本の美術60 民家』(1971・至文堂)』『鈴木充著『民家』(ブック・オブ・ブックス『日本の美術37』1975・小学館)』『鈴木嘉吉監修・宮沢智士執筆『万有ガイドシリーズ30 日本の民家』(1985・小学館)』『太田博太郎他編『図説日本の町並み』全12巻(1982・第一法規出版)』


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百科事典マイペディア 「民家」の意味・わかりやすい解説

民家【みんか】

一般民衆の住居。祖先伝来の感覚や技術の結晶が見られ,風土性豊かなのが特徴。町家と農家に大別される。町家では,桃山時代ごろ京都に発達したおもて造が代表的。2階建ではあるが軒が低く,屋根は瓦葺(かわらぶき),2階は泥塗りの縦格子があらく入り,反対に1階は木格子が細かく意匠され,出入口には屋号や家紋を染め抜いた〈まくかけ〉をおろした。江戸初期に流行し,のち全国の町家のモデルとなった。江戸でも京風の町家が建てられたが,相次ぐ火災の対策から,江戸中期には防火的な土蔵形式の塗屋造が普及し,塗屋造の家屋に黒塀(べい)と見越しの松を配した,いわゆる江戸風の造が成立した。農家では,合掌造兜(かぶと)造くど造高塀造中門造土蔵造本棟造曲屋など地方の生活様式,生活感情に沿った独自の形式が各地方に発達した。
→関連項目千年家大黒柱柱割棟飾八棟造和小屋

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「民家」の意味・わかりやすい解説

民家
みんか

広義には貴族や上層武士住宅に対して一般庶民の住いをいう。日本では町家,漁師の住いのほか,中下級武士の住いも含むが,農家を意味することも多い。中世までさかのぼる民家は兵庫県に千年家と呼ばれる2棟が残るのみで,ほかは江戸時代以降のものである。平面形式,架構形式,外観デザインともに豊かな地方色を示す。農家では釜屋 (炊事,食料置場) と居室を別とする分棟型は南九州や四国,房総半島,宮城県伊具郡などに分布し,山形・秋田県の中門造や岩手県の曲屋,長野県の本棟造,富山県五箇山や岐阜県白川郷の合掌造,滋賀県北部の土座住い,奈良県の大和棟,佐賀県のくど造など多くの形式がある。

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家とインテリアの用語がわかる辞典 「民家」の解説

みんか【民家】

一般民衆の住居。会社、商業施設、公共施設や集合住宅などに対し、主として一戸建てのものをいうことが多い。狭義では、地域の生活様式に根ざした形式で建てた農家や町屋などをいう。

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普及版 字通 「民家」の読み・字形・画数・意味

【民家】みんか

民の家。

字通「民」の項目を見る

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世界大百科事典(旧版)内の民家の言及

【江戸時代美術】より

…それは,古代以来の日本美術の伝統の民衆による収穫の時期であり,近代の美術の出発点もまたここに求められる。【辻 惟雄】
【建築】
 江戸時代の建築は,初期には東照宮など,武家に関係の深い建築や,伝統的な社寺建築が中心になり,中期から末期にかけては,民家や劇場など,庶民に関係が深い建築が主要なテーマになる。安土桃山時代に中心的な位置を占めた城郭は,徳川幕府の一国一城令(1615)によって,旧態を維持するだけという状況になる。…

【住居】より

…このようにして発達した数寄屋造は,江戸幕府が住宅に華麗な装飾をほどこすことを禁止したこともあって,広く住宅に受け入れられ,その影響は現代建築にまで及んでいる。数寄屋造
[民家]
 近世になると,それまではあまり脚光を浴びなかった庶民の住居である民家も急速に発達し充実した。近世初期の農家は屋内に広い土間と,それに隣り合った〈いろり〉を切った広い居間があった。…

【ペー族(白族)】より

…ペー語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派イ(彝)語支に属すが,単独でペー語支を形成するという説もある。大理地区のペー族はミンチヤ(民家)と呼ばれ,蘭坪・碧江一帯ではナマ(那馬),ラマ(拉馬)と呼ばれた。後者はナシ(納西)族からレブ(勒布),リス(傈僳)族からレメ(勒墨)と称されたことと関係がある。…

※「民家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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