日本歴史地名大系 「大谷寺跡」の解説
大谷寺跡
おおたにじあと
〔越知山信仰〕
越知山は越の大徳と称される泰澄が一四歳で登峰し、修行したと伝える山で、こののち白山を開いたといわれる。文明一〇年(一四七八)一二月二五日の越知山年中行事(越知神社文書、以下同文書)に「四月五日平泉寺ノ御神事、既当山ハ為本寺之間」とあるように、越知山を中宮
大谷寺は嘉元四年(一三〇六)八月二一日、藤原兼範から弘法大師御影供料田二段を寄進されるなど(弘法大師御影供料田寄進状)、真言系であったと考えられるが、天文元年(一五三二)一〇月晦日の大谷寺宛朝倉孝景沙汰状では山門梶井門跡より、今後衆従分は総体として諸法事および南北入峰などを執行うべきであるという旨の下知がなされた、とあるように、のち天台宗となり、近世には平泉寺の次席に置かれた。
大谷寺跡
おおたにじあと
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報