小河村(読み)おうごむら

日本歴史地名大系 「小河村」の解説

小河村
おうごむら

[現在地名]相生市矢野町小河やのちようおうご

上土井かみどい村の北、小河川上流域に位置する。集落は南北に細長い小河谷の北から深山口みやまぐち大谷おおたに中所なかじよ出口でぐちと、古山陽道沿いの観音かんのん(元禄郷帳では東小河村とある)とに散在する。正安元年(一二九九)一一月五日の矢野庄の例名実検取帳案(東寺百合文書)に「小河」「小川」とみえる。面積は一町未満で、当地に該当するかは不明。ただ矢野庄から早くに切出された別名に属していたので、面積的に少ないのかもしれない。南部の古山陽道沿いに古宿ふるしゆくの字地名があり、二木ふたつぎ宿を統轄していた小河氏の拠点であったともいわれる。


小河村
おうごむら

[現在地名]北区山田町小河やまだちようおうご

藍那あいな村の北西、六甲ろつこう山地西部山間に位置し、近世八部やたべ丹生山田たんじようやまだ庄のうち。西は播磨との国境。村の北西隅、播磨押部おしべ(現西区)との境にあるシブレ山(三四七・五メートル)は、暦応二年(一三三九)八月一三日丹生寺たんじようじ城を本拠としていた南朝方と攻撃に向かった北朝方とが合戦したという「志武礼峯」(同年一〇月二八日「僧尭賢軍忠状案」東大寺文書など)にあたるとみられる。慶長国絵図に小川村とあり、高一七二石余。天和三年(一六八三)頃の摂津国御料私領村高帳以降、小河村と表記され、高も一九〇石余のまま幕末に至る。


小河村
おがわむら

[現在地名]朝日町小川おがわ

越知おち山中腹から流れ出る越知川の最上流にある。大永四年(一五二四)三月日付大谷寺言上書(越知神社文書)に「小河衆別山之裏にて栗木を伐取、倉之道具・板・柱ニ仕リてうリ申候」とみえ、大谷おおたに寺の管理する越知山の栗木を伐採した旨が記される。また同八年七月三日付印牧美次・青木景康注進状(同文書)や、享禄元年(一五二八)九月一七日付美次・景康調状(同文書)によると、同山への入山をめぐって大谷寺衆僧との争いが続いていたが、小河村方に証文がないとの理由で敗訴となった。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では、伊藤いとう郷に含まれたと考えられる。


小河村
おごむら

[現在地名]敦賀市小河

小河川中流の両岸に位置する山間の村。川は西流して鳩原はつはら小河口おごぐちの中間で疋田ひきた川に合流する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に「小川村」とみえ、村高一一〇石余。正保郷帳によれば田方一〇二石余・畠方八石余。天和二年(一六八二)小浜藩領より鞠山藩領となる。享保一二年(一七二七)敦賀郷方覚書によれば、庄屋介右衛門(持高一〇石余)、牛馬銀一五匁、新山手銀二〇二匁余、渋柿二斗五升代米一斗五升、夫役一ツ、夫米七俵余、馬足二七疋、牝馬一八、外高一二石余、家数四三(うち高持三四・無高八・寺一)、人数二二六で、明治一一年(一八七八)には戸数四一、全戸農家で人数二三六(滋賀県物産誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android