内河野村(読み)うちがわのむら

日本歴史地名大系 「内河野村」の解説

内河野村
うちがわのむら

[現在地名]山香町内河野

現山香町のほぼ中央にそびえる大村おおむれ山の東麓に位置する。立石たていし川の西岸で、村の中央を立石川の支流上市かみいち川が東流。旧高旧領取調帳に村名がみえ、正保郷帳などに各各一村として載る鶴成つるなり村・後川内うしろごうち村から構成される。日出藩の一手永。「図跡考」は後川内村をさらに上後川内村・下後河内村二村に分ける。同書によると鶴成村を構成する小村は三郎丸さぶろうまる野田のだなか岩屋いわや林崎はやしざきすぎもと風呂屋ふろやの七村、上後川内村の小村は池下いけのした草葉くさば小谷おたに辻尾野つじおの山口やまぐち平野ひらの小藤おふじ白木原しらきばるもりとうげ古野ふるの石原いしわら楠根くすねなか堂野尾どうのお・内川野・高尾たかお大恒おおつね俣井川原またいかわら金堂こんどう綾富あやとみ赤山あかやまの二二村、下後河内村の小村は柳迫やなぎがさこ組崎くみさき余名よみよう・上市・階廻かいめぐり俣井またいすえまつ・せんま・下市の九村。

〔中世〕

永享七年(一四三五)八月九日の大友親綱知行預ケ状(長野末夫文書)によると、「山香郷内綾富三町」が長野左馬助に預けられている。また年未詳一〇月一六日の大友親隆知行預ケ状(同文書)では長野言重に「山香郷内本給綾富拾貫」を預けている。永正四年(一五〇七)の志手泰久田畠坪付并米定銭夫銭注文案(志手文書)には「一所弐町 綾留分」がみえ、永正年間の山香郷一揆拘分土貢納所銭注文案(志手トラエ文書)によれば山香東西一揆の東方給地として「綾富」に二町を与えている。


内河野村
うちがわのむら

[現在地名]安心院町上内河野かみうちがわの下内河野しもうちがわの

深見ふかみ川を挟んで上畑うえのはた村・矢上やがみ村・広連ひろつれ村・水車みずぐるま村などの東にあり、村域は同川上流域から中流域にかけて南北に細長く展開している。北は今井いまい村。のちに北部の下内河野、南部の上内河野の二村に分村した。中世には深見庄内であったと思われる。文安元年(一四四四)三月日の佐田盛景当知行所注文(佐田文書)に「深見庄内下岩迫屋敷土貢弐貫文」とみえる。この下岩迫屋敷は地内の岩坂いわのさこに比定される。同屋敷は文正元年(一四六六)四月一〇日に佐田昌佐に安堵され(「大内政弘安堵状」同文書)、文明一八年(一四八六)六月日の佐田忠景知行所注文(同文書)にみえるなど、代々佐田氏が領掌した。


内河野村
うちがわのむら

[現在地名]野津町藤小野ふじおの 内河野

生野しようの村の西、野津川南岸にあり、同川支流内河野川が北へ流れて合流する。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には内河野村が生野村など四ヵ村分と一括された一冊が含まれ、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳に村名がみえ、高四〇石余。下ノ村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方三四石余・畑方六石余、柴山などありと注記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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