六郷山
ろくごうさん
平安時代後期から鎌倉時代を通じて国東半島一帯で成立し栄えた天台宗寺院の総称で、六郷満山ともいう。六郷とは「豊後国風土記」に記されている「国埼郡 郷陸所」の六郷をさし、郷名は武蔵・来縄・国前(国東)・田染・阿岐(安岐)・伊美の六郷である。六郷山の称を用いた史料では、長承四年(一一三五)三月二一日の夷住僧行源解状案(余瀬文書)に「六郷御山」とみえるのが早い。しかし現豊後高田市西叡山出土と伝える高山経塚出土紙本墨書経(宇佐風土記の丘歴史民俗資料館蔵)には、大治五年(一一三〇)の年号と六郷高山の文字がある。当時国東半島内に所在する寺院は六郷山何々と称しているので、この六郷高山の場合も六郷山高山の意となる。このことからも少なくとも一二世紀初頭には六郷山の呼称があったと推測できる。
〔仁安目録の検討〕
これまで六郷山の根本史料の一とされてきた六郷二十八山本寺目録(太宰管内志)によると、平安時代末には六郷の地に六四ヵ寺もの天台宗寺院が存在し、これら諸寺院は本山・中山・末山の整然とした三山形式をとり、それぞれに本寺・末寺を配していたとする。しかし従来仁安三年(一一六八)の作成とされていたこの目録は後世の作であると考えられ、通説となっていた前述平安時代末の六郷山の様相は再検討が迫られる。鎌倉時代以降の六郷山関係史料と前掲目録とを比較すると、山号の付け方・寺の呼称に大きな差異がみられる。一般に古い時代の山号は寺の所在地を冠する場合が多い。六郷山の場合は、六郷(国東六郷)の地に位置していることから、早い時代の史料では六郷御山夷・六郷山岩戸寺など諸寺院(岩屋)がそろって六郷山の山号を用いていた。これに対して前掲目録の場合はほとんどが現行の山号である。しかし六郷山の諸寺院に六郷山以外の山号が付くようになるのは、史料上、早くとも室町時代も中期以降であり、なかには江戸時代になって現行の山号が付いたと考えられる寺もある。これらのことから、同目録が仁安三年に成立したとするには疑問がある。さらに各寺院の寺号からみても疑いがある。同目録所収の寺院に比定される寺がほぼ出そろう建武四年(一三三七)六月一日の六郷山本中末寺次第并四至等注文案(永弘文書)によると、寺号の大半はその寺の所在地(後山・吉水山・大折山など主として山名)をそのまま付すか、現真玉町応暦寺を大岩屋、現同町無動寺を小岩屋というように岩屋の呼称で記されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の六郷山の言及
【八幡信仰】より
…比咩大神,神功皇后と若宮四神は六所権現として山岳信仰にも結びついて,八幡大菩薩に対して人聞(にんもん)(神母)菩薩が民衆に信仰された。その本山が豊後国国東(くにさき)半島の六郷山で,ここに六郷山修験道が生まれ,安産,生産,災害防止など広く庶民の願望にこたえた([六郷満山])。しかし全国的には応神天皇を中心に,神功皇后,仲哀天皇などと組み合わされて広く信仰された。…
【六郷満山】より
…大分県国東(くにさき)半島には古くは国埼(東)郡として六つの郷があった。この六郷に成立した多くの天台宗寺院を六郷山または六郷満山と総称する。750年(天平勝宝2)国埼郡来縄(くなわ)・安岐・武蔵郷内は宇佐八幡宮比咩神封戸となったが,また970年(天禄1)公家貢進の330余戸(《宇佐託宣集》)が宇佐八幡宮神宮寺の弥勒寺領とすれば,これによって国衙領国前(東)郷を除くすべては宇佐八幡宮寺領となった。…
※「六郷山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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