密教の教義を,大日如来を中心とした諸尊の配置によって図示した曼荼羅。胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅をあわせて両界曼荼羅という。両部曼荼羅とも称される。これら金・胎両曼荼羅は,インドでは別々に発達し,7世紀中ごろに成立した《大日経》により胎蔵曼荼羅が作られ,7世紀から8世紀初めにかけての《金剛頂経》にもとづき金剛界曼荼羅が出現する。胎蔵界曼荼羅は大悲胎蔵生曼荼羅,また胎蔵曼荼羅と称し,〈界〉を有さないが,中国唐代において金剛界曼荼羅と併用するにいたり,両者をあわせて両部曼荼羅と称されたが,のち〈金剛界〉に対応させて胎蔵界曼荼羅となり,両界曼荼羅の呼称が一般化した。
密教寺院の本堂では,中央に仏器や法具の並ぶ壇があり,その両側に両界曼荼羅が懸けられる。向かって右(東)が胎蔵界曼荼羅,左(西)が金剛界曼荼羅である。現存の両界曼荼羅のほとんどが空海請来系の現図曼荼羅であり,模写されて広く流布している。空海《請来目録》に,〈大毘盧遮那大悲胎蔵大曼荼羅一鋪(七幅,一丈六尺),金剛界九会曼荼羅一鋪(七幅,一丈六尺)〉とあるのが現図曼荼羅であり,この双幅の大曼荼羅は,空海の師の恵果(けいか)が供奉丹青(ぐぶたんせい)李真ら10余人の画工に描かせたといわれ,恵果より直接伝授されたものである。この両曼荼羅の組合せは,恵果以前には見いだせない。しかも恵果は不空より金剛界法を,善無畏の弟子玄超より胎蔵法を受法し,現図曼荼羅の諸尊の図像にも金・胎の巧みな融合がみられるため,現図曼荼羅の作者は恵果に帰せられてもよかろう。
まず目につくのが,中央に開花する八葉蓮華である。中心には白蓮上に定印を結ぶ胎蔵界の大日如来が座し,それをめぐって八葉上には,上部から右回りに胎蔵四仏,すなわち宝幢(ほうどう)(東に位置し,与願印を結ぶ),開敷華王(かいふげおう)(南,施無畏印),無量寿(むりようじゆ)(西,禅定印),天鼓雷音(てんくらいおん)(北,降魔印)の四如来を配し,この四仏の中間に東南より四菩薩(普賢,文殊,観音,弥勒(みろく))が座す。この八葉蓮華を五色の界線で囲む中核の区域が中台八葉(ちゆうだいはちよう)院である。この院の上部の五尊一列を遍智(へんち)院といい,その中央に三角火印がある。下部の五尊一列を持明(じみよう)院といい,般若菩薩を中心に,この院にのみ明王(みようおう)が左右に2尊ずつ配される。以上縦につづいた3院の両側に,3列7段ずつの一群が並ぶが,向かって左が観音院で,蓮華(れんげ)を持つ観音の諸尊群であるので蓮華部院とも呼ばれる。右は金剛手(こんごうしゆ)院で,金剛杵や武器類を持つので金剛部院とも称される。遍智院上方に広がる2段の群像は,中央門内の釈迦如来を主尊とする釈迦院。持明院の下方にあって,虚空蔵(こくうぞう)菩薩を中心に2段の諸尊が並び,左右両端に千手観音と金剛蔵王菩薩の多面多臂像を配するのが虚空蔵院である。以上の諸院を囲む外周帯は,上部から右回りに文殊院,除蓋障(じよがいしよう)院,蘇悉地(そしつじ)院,地蔵院がめぐり,総計12院からなる。最外周の最外(さいげ)院(外金剛院)には,200余尊にも及ぶ天部諸尊がめぐり,上部から右回りに東南西北の四門を置く。
画面は界線により9等分され,9種の曼荼羅からなる複合曼荼羅であるため,九会(くえ)曼荼羅とも称される。尊像ごとに白円光の月輪(がちりん)を負い,あたかも壁にメダルが並ぶようにみえるところに特徴がある。九会の中心の成身会(じようじんね)は,具象的な仏像を通して金剛界法を表現する大曼荼羅。内郭は5個の白円からなり,各円内は如来を中心に四菩薩がめぐる。中央は大日(仏部),下(東)は阿閦(あしゆく)(金剛部),左(南)は宝生(ほうしよう)(宝部),上(西)は無量寿(蓮華部),右(北)は不空成就(ふくうじようじゆ)(羯磨(かつま)部)の5円からなり,胎蔵界にはない宝部,羯磨部の2部を加えている。その周囲を外郭で囲み,郭内に賢劫千仏(成身会以外は賢劫十六尊)および外供養,四摂菩薩を置き,郭外に二十天をめぐらす。これが金剛界曼荼羅の基本形式で,九会中の上から2,3段の6曼荼羅はすべてこの基本形式である。成身会の下方にある三昧耶会(さんまやえ)は,尊像の代りにシンボルの三昧耶形を描き,これによってより深い意念を伝えようとする三昧耶曼荼羅である。この左方の微細(みさい)会は,三昧耶形を超越し,金剛杵や梵字(種子(しゆじ))の内奥の極微の世界に全魂を凝集し,現象の奥にある理法をあらわす法曼荼羅。その上方の供養会は,社会行動をする際,互いに供養し和み合う世界を求める羯磨(行為)曼荼羅。以上の大・三・法・羯の4曼荼羅を総称して,四種曼荼羅という。供養会の上方の四印会は,大衆に理解しやすいように四種曼荼羅を簡略化した,尊像と三昧耶形併用の曼荼羅である。その右方の一印会は月輪内に智拳印を結ぶ金剛界大日一尊を描き,瞑想のきわみに仏と感応し,仏身と一如となる即身成仏の教理を象徴した金剛界総括の曼荼羅。その右方の理趣(りしゆ)会は,《理趣経》による曼荼羅で,男女の愛欲を肯定しながら昇華することによって,煩悩即菩提を求める曼荼羅。その下方の降三世(ごうざんぜ)会,その下方の降三世三昧耶会では,従来諸天王の主であった大自在天を服従させた降三世明王が新登場するなど,理趣会を含むこれら右側の3曼荼羅には,インド後期密教の萌芽がみられる。胎蔵界曼荼羅が拡散展開して現象界の〈理〉をあらわすのに対して,金剛界曼荼羅は凝集内観して精神界の〈智〉を示すものとして両界曼荼羅は,理智不二の密教的世界観を具現するものとされている。
7世紀中期ころから8世紀の初めにかけて,阿地瞿多訳《陀羅尼集経》や菩提流志訳《不空羂索神変真言経》,同訳《一字仏頂輪王経》などの雑密経典には,胎蔵曼荼羅や金剛界曼荼羅の祖型が散見されるほどに曼荼羅の発達がみられた。大日如来を中心とした純密の胎蔵曼荼羅の遺品としては,鎌倉時代初期の転写本ではあるが,原本が円珍請来(853-858入唐)の《胎蔵図像》(奈良国立博物館)と《胎蔵旧図様》がある。前者は胎蔵曼荼羅としては最も古いと考えられ,善無畏所伝であるが,後者は《胎蔵図像》と現図曼荼羅の中間的位置にあり,図像的には不空系である。一方,金剛界曼荼羅には,円珍が入唐し,長安におもむき(855),青竜寺の法全(はつせん)から授与された善無畏所伝の《五部心観》(滋賀園城寺)がある。図中に彩色のメモがあるため,原本は彩色本であったことが知られる。この曼荼羅は6会からなり,現図曼荼羅右側の理趣会,降三世会,降三世三昧耶会を欠く。尊像は異国的風趣にみち,成身会の諸尊は鳥獣座に座し,一印会の中尊は大日でなく三鈷杵のみを持つ金剛薩埵(さつた)であるなど,現図曼荼羅より古様を有する。これら貴重な諸本の図像を分析することによって,《胎蔵図像》から《胎蔵旧図様》をへて胎蔵界曼荼羅へ,また《五部心観》をへて金剛界曼荼羅へというように,現図曼荼羅にいたる変遷過程を解明しうる。またこれら諸本によって,現図曼荼羅がいかに拡充され,これが構図の左右相称を重んじた完成態の両界曼荼羅であるかが明らかにされる。
東寺における空海請来の両界曼荼羅(現図曼荼羅)は,損耗が甚だしいため,弘仁12年(821)に最初の転写が行われ,以後建久2年(1191),永仁2年(1294),元禄6年(1693)と4回写された。元禄本の大曼荼羅は,現在なお東寺の灌頂堂において用いられている。一方,天長年間(824-834)に新造された高雄神護寺灌頂堂のために作られた《両界曼荼羅》(《高雄曼荼羅》とも。紫綾金銀泥絵,神護寺)は現存する最古の現図曼荼羅である。《伝真言院曼荼羅》(絹本著色,東寺,899)は,彩色のものとして最古の遺品で,小型ではあるがすぐれた作域を示す。寺伝では宮中真言院の御修法(みしほ)用の曼荼羅としているが確証はない。また醍醐寺五重塔(951)初層内の両界曼荼羅壁画,《子島曼荼羅》(紺綾金銀泥絵,子島寺),《血曼荼羅》(絹本著色,金剛峯寺,1150)など,現図曼荼羅の遺品は多い。このほか台密用の金剛界八十一尊曼荼羅があり,円仁請来本から描いたと見なされる根津美術館本(13世紀前半)や兵庫太山寺本などが知られる。石山寺版や妙法院版のように,鎌倉時代末から室町時代になると,量産化を意図した木版刷の両界曼荼羅が流行する。1870年(明治3)の法雲による御室版は,現図曼荼羅の普及に貢献した。このほか板彫,金銅板,鏡像,小型厨子入りなど,工芸化された両界曼荼羅もある。
→曼荼羅 →密教美術
執筆者:石田 尚豊
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両部曼荼羅とも。胎蔵界(たいぞうかい)曼荼羅と金剛界(こんごうかい)曼荼羅の2種の曼荼羅をあわせた呼称。両曼荼羅は別個に成立・発展したが,中国では二元論的に把握され,東西一対の曼荼羅として位置づけられた。胎蔵界曼荼羅は「大日経」に依拠して図絵され,金剛界曼荼羅は「金剛頂経」により縦横に整然と9区(九会)の曼荼羅を並べたもの。前者は悟りの本来の姿(理)を示し,後者は仏の智恵の実相を表したものとされ,両曼荼羅を統一して理智不二という密教的な世界観を表す。空海請来の正系である現図(げんず)曼荼羅のほか,子島(こじま)曼荼羅・西院曼荼羅などの別系本があり,また台密(たいみつ)では金剛界曼荼羅に八十一尊曼荼羅を用いることもある。
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両部(りょうぶ)曼荼羅ともいい、空海請来(しょうらい)の『現図(げんず)両界曼荼羅』をさす。両界とは、金剛(こんごう)界と胎蔵(たいぞう)界の曼荼羅一対(一組)をいう。また修法の金剛界・胎蔵界(正しくは胎蔵法という)に使用する曼荼羅の意。金堂などでは、内陣において向かって胎蔵界を東側に、金剛界を西側にかけるのを基本とする。真言(しんごん)密教では、この二部立(にぶだて)をおのおのの両方の壇上の敷(しき)曼荼羅に当てはめ、両部(両界)不二(ふに)を表す。
[真鍋俊照]
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…ほかに彫刻では,毘沙門堂に安置されるが,もと羅城門の楼上にあったといわれ,異国風の容貌,服装をした兜跋毘沙門天(とばつびしやもんてん)立像(唐代)が国宝。 絵画では《真言七祖像》(唐代および平安前期),《五大尊像》(伝覚仁筆,平安後期),《十二天屛風》(伝宅磨勝賀筆,鎌倉前期),《両界曼荼羅》(平安前期)がいずれも国宝。《真言七祖像》はそのうち五祖像が唐の李真筆で,空海が請来し,他の2祖は帰国後描かせたとされる。…
…観心寺如意輪観音像の表現はその両者の調和の上にあるといってよく,多臂の超人間的な形姿を巧みにまとめて密教像独特の神秘的な雰囲気を最高度に示している。 密教の根本教義を造形化した両界曼荼羅はいうまでもなく空海が唐から将来したものがその基本となるわけであるが,その絹本彩色の画幅は早くに傷み,現存最古のものは神護寺が蔵する綾本金銀泥絵の一本(《高雄曼荼羅》)である。これは829‐834年(天長年間の後半)淳和天皇発願により空海が描かせたと考えられるもので,その強靱な描線であらわす格調高い像容は,いま見ることのまれな本格的な唐代密教画の趣致を伝えている。…
※「両界曼荼羅」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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