日本大百科全書(ニッポニカ) 「天瑞院」の意味・わかりやすい解説
天瑞院
てんずいいん
1513―1592
豊臣秀吉の生母。名は、なか(仲)。尾張国愛知郡の生まれという。木下弥右衛門(姓については疑問も)と結婚し、とも(智。三好吉房(みよしよしふさ)室)、秀吉を生む。弥右衛門没後、織田家同朋衆(どうぼうしゅう)筑(竹)阿弥(ちくあみ)と再婚し、秀長、旭(朝日)姫(あさひひめ)(徳川家康室)を生む(父子関係には異論も)。秀吉とともに長浜城などに移り住み、大坂城築城後は城内に住む。1585年(天正13)秀吉の関白就任によって、大政所(おおまんどころ)と称せられる。尾張長久手(ながくて)での秀吉の敗戦、講和後、家康の上洛を促すため、1586年人質として岡崎に行く。よって家康は上洛し、大坂城で秀吉への臣従の礼をとった。朝鮮出兵の時期に重病となり、1592年(文禄1)肥前名護屋(なごや)にまで至った秀吉は、渡海を止まる。7月、京都聚楽第(じゅらくだい)で没。准三后(じゅさんごう)が追贈された。
[真下道子]
『西岡虎之助著『日本女性史考』新装版(1983・新評論)』▽『渡辺世祐著『豊太閤の私的生活』(講談社学術文庫)』