日本歴史地名大系 「天野山金剛寺」の解説
天野山金剛寺
あまのさんこんごうじ
〔草創〕
寺伝によれば奈良時代、行基の開創というが、当寺の歴史が文献の上で確かめられるのは平安時代後期からである。すなわち和泉国大鳥郡出身の阿観が、高野山に登って修行ののち、夢告により、承安年中(一一七一―七五)寺家別院として高野大師(空海)御影・御影堂御影第三伝を安置し、丹生・高野両所明神を勧請した(建保三年七月日付「嘉陽門院庁下文」金剛寺文書、以下特記しない限り同文書)。これが当寺の再興(あるいは草創)の事情である。
右の「承安年中」は承安二年とされ、次いで阿観は治承二年(一一七八)金堂を建立し、養和元年(一一八一)には伝法会を始行した(明応七年「僧阿観行歴」)。一方治承二年に住僧らは当寺を八条院の祈願所として寄進した(建久六年七月九日付八条院庁下文案)。阿観の門弟には大弐局(法名浄覚)・六条局(法名覚阿)の二人の比丘尼がいたが、二人は八条院・宜秋門院に奉仕しており(嘉禎三年五月日付前摂政家政所下文案)、浄覚の力によって当寺を八条院祈願所に寄進したともいう(天福二年三月九日付官宣旨案)。ただし右の官宣旨案は寄進の年次を誤っているが、八条院が阿観に帰依したことから、二人の比丘尼が門弟となったか、あるいは二人の門弟の縁によって八条院の帰依を得るに至ったものであろう。ちなみに二人の比丘尼は阿観の跡を受けて相次いで寺主となったが、このことから「女人高野」の称が起こったという。八条院の祈願所に寄進した目的は、いうまでもなくその保護を受けて興隆を期するにあったと思われるが、効果は早速に現れ、治承四年には
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報