太子村(読み)たいしむら

日本歴史地名大系 「太子村」の解説

太子村
たいしむら

[現在地名]太子町太子

春日かすが村の西にあり、北は古市郡通法寺つうほうじ(現羽曳野市)に接する台地上に位置する。春日村の東に飛地がある。太井たい川・うめ川が北西に流れ、村域北西部で合流して石川に至る。地名聖徳太子の廟所があることにより、廟所とこれを守護する叡福えいふく寺を中心に、西の喜志きし(現富田林市)を通る東高野街道と春日村を通る竹内たけのうち街道を結ぶ道筋の村として発展した。昭和八年(一九三三)北部で銅鐸が発見されている。建武四年(一三三七)一一月日付土屋宗直軍忠状(土屋文書)に「打通春日太子」とみえ、伊香賀いかが(現枚方市)の地頭土屋宗直が北朝方に属し同年一〇月一九日に当地一帯で戦っている。室町時代には両畠山氏の抗争の舞台ともなった。寛正二年(一四六一)正月二日、嶽山だけやま(現富田林市)に籠った畠山義就とこれを討とうとした畠山政長軍が交戦した(「大乗院寺社雑事記」同月七日条)


太子村
おおしむら

[現在地名]六合村太子

白砂しらすな川の西岸白根しらね山麓の東面傾斜地にある。東は同川を挟んで赤岩あかいわ村と対し、東南は日影ひかげ村。貞享三年(一六八六)検地帳(日影区有文書)には「日影村之内太子村」とあるが、村高は別に記され四一石余、うち田方一石余・畑方三九石余、幕府領。江戸後期には家数二〇、幕府領(御改革組合村高帳)。明治一〇年(一八七七)頃の家数二二、ほかに社三(十二・諏訪・稲荷)、人数一〇四、牝馬一八。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報