太田川村(読み)おおたがわむら

日本歴史地名大系 「太田川村」の解説

太田川村
おおたがわむら

[現在地名]泉崎村太田川

阿武隈川の支流いずみ川の北岸にあり、奥州道中沿いの宿駅で、南西小田川こたがわ宿(現白河市)北東踏瀬ふませ宿、南東は泉崎村、北側は山地である。文保二年(一三一八)二月一六日の関東下知状(熱海白川文書)によれば、白河庄のうち「富沢・真角・大和久・葉太・大田河・小田河・趺増・赤丹沢等郷」に対する結城盛広の地頭職が確認されている。天正一八年(一五九〇)から会津領、寛永四年(一六二七)白河藩領、寛保元年(一七四一)越後高田藩領となり、浅川あさかわ代官所(現浅川町)支配、文化六年(一八〇九)幕府領となったが高田藩預地として釜子かまのこ陣屋(現東村)支配、文政三年(一八二〇)以降幕府直轄領。


太田川村
おたがわむら

[現在地名]穴水町竹太たけだ

内浦街道に沿い、南は古君ふるきみ村、北は鵜川うかわ(現能都町)。うたがわとも発音する。慶長七年(一六〇二)鵜川天神堂奉加札(能都町菅原神社蔵)に「弐俵 しほ 太田川惣中」「一斗八升 米 同村五郎兵衛いつさし 彦五郎 又三郎」とみえる。正保郷帳では高一〇〇石余、田方二町九反余・畑方三町七反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高一一一石、免五ツ、小物成に山役四八匁、鳥役一匁(出来)・猟船櫂役五匁(ほか二〇匁退転)がある(三箇国高物成帳)。同一一年の百姓家数六・下百姓家数二で、持高内訳は二二石余二、二六石余・一八石余・一三石余・八石余各一(「草高免付百姓数帳」泉原文書)


太田川村
おおたがわむら

[現在地名]川場村太田川

中野なかの村の東に位置。寛文期(一六六一―七三)には中野村に含まれていたと思われる。貞享二年(一六八五)の旧真田領村高書上控に村名がみえ、高四石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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