夷講(読み)えびすこう

改訂新版 世界大百科事典 「夷講」の意味・わかりやすい解説

夷講 (えびすこう)

えびす神をまつる年中行事。1月20日,10月20日の2回を祝う場合や,1月10日,12月8日といった日取りの地方もある。えびす七福神の中心となる神として福徳を授けてくれるものとされ,各家庭では左膳に魚を添え,お金を升に入れて供えたりする。2回祝う所では,春に稼ぎに出かけ,秋には戻ってくるので,春は朝祝い,秋は夜祝いをするなどとも伝えている。また,12月8日を百姓えびす,10月20日を商人えびすという土地もある。関西では,今宮・西宮の十日戎(とおかえびす)と称して,1月10日ににぎやかな祭礼があり,10月20日を誓文払(せいもんばらい)と呼び,商家の売出しが行われたりする。近世上方商人の間では,仲間を招いて祝宴を開き,商売繁盛を願うなど,同業者の講としての性格が強かった。しかし,関東地方では,田植後の苗を供えたり,刈上祭の場合にも稲を供えたりする田の神の性格も兼ねており,春秋2回のえびす講には,田の神の去来との関連も考えられる。
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百科事典マイペディア 「夷講」の意味・わかりやすい解説

夷講【えびすこう】

夷の祭。旧10月20日商人仲間が講宿に集まり酒宴を開いて商売繁盛を祈ったが,やがて講とは関係なく取引先を供応し,神に感謝して誓文(せいもん)払い,えびす講の売出しをするようになった。これに対し旧正月20日を初夷,若夷といい,大黒とともに台所の神としてまつる。西宮神社,今宮戎(えびす)神社の十日夷,初夷は正月10日,西日本の漁村でも10日,11日に夷をまつる。
→関連項目えびす(夷/恵比寿/戎)べったら市

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世界大百科事典(旧版)内の夷講の言及

【誓文払い】より

…商店で在庫品その他を格安に売り出すこと。本来は江戸時代,陰暦10月20日に京都の商人や遊女が四条京極にある官者殿(冠者殿)(かんじやでん)に参詣し,一年中商売のかけひきにうそをいった罪をはらい,神罰を免れるように祈ることをいった。官者殿は祇園社の末社で,〈誓文返しの神〉とされていた。のち転じて,商家がふだんおかしがちな虚言を恥じてたてた1日ということになり,罪滅ぼしの精進日とし,内では福の神として蛭子(えびす)をあがめ,店頭では良品,端物を格安にひさぎ,神罰,仏罰の許されんことをひとえに願った。…

【べったら市】より

…東京日本橋の大伝馬町一帯で毎年10月19日夜に開かれる市。翌20日の夷講(えびすこう)の用品を売る市で,神棚,三方(さんぼう)などのほか,近くの魚河岸から売れ残りの干魚などを持ち込んで売ったもので,〈腐市(くされいち)〉と呼ばれていた。《守貞漫稿》にはそれらのほかに,ダイコンの浅漬(あさづけ)を売るようになったことが記されており,この浅漬を〈べったら漬〉と呼んで市民が愛好したため,〈べったら市〉の名が起こった。…

【干鰯問屋】より

…江戸時代の魚肥の問屋兼仲買商。農業生産における魚肥の施用は戦国期に始まるが,江戸時代に入って大衆的衣料として普及した木綿の原料としての綿作の発展は,速効性にすぐれた購入肥料としての魚肥の需要を増大させ,大坂,江戸をはじめ各地に魚肥を扱う干鰯問屋が成立した。なかでも江戸前期から綿作の特産地を形成した畿内農村への魚肥の供給地として,早くから堺,尼崎に干鰯の入津がみられたが,1624年(寛永1)大坂の永代浜に干鰯揚場が開かれ,新靱,新天満,海部堀川3町を中心とする通称靱島(うつぼのしま)(現在の西区)に干鰯問屋仲買が集住するに及んで,大坂商人の一中心勢力となった。…

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