宇和島城跡(読み)うわじまじようあと

日本歴史地名大系 「宇和島城跡」の解説

宇和島城跡
うわじまじようあと

[現在地名]宇和島市丸之内一丁目

宇和島市の中央にそびえる高さ八〇メートル、周囲一二四九メートルの通称城山しろやまに築かれた城郭跡。慶長年間(一五九六―一六一五)藤堂高虎によって築城され、寛文年間(一六六一―七三)伊達宗利によって改修された。元和元年(一六一五)の伊達秀宗入部以後明治維新に至るまで宇和島藩伊達氏の居城であった。一名鶴島つるしま城という。国指定史跡。

〔丸串城〕

中世には、板島丸串いたじままるぐし城ともよばれ、戦国期の天文―永禄年間(一五三二―七〇)豊後の大友勢が侵攻した頃には高串たかぐし村の土豪家藤監物が守っていたといい、天正三年(一五七五)来村くのむら殿西園寺宣久の居城となったという。豊臣秀吉の四国征伐後は、小早川隆景領時代に持田右京が、戸田勝隆領時代に戸田与左衛門がそれぞれ城代として在城したが、当時の丸串城が大規模な城郭であったとは考えられない。

宇和島城が近世城郭としての規模を備えはじめるのは、文禄四年(一五九五)七月藤堂高虎が宇和郡のうち七万石の領主となり、丸串城を本城と定めてからである。「宗国史」に「慶長元丙申年八月修板島城」とある。慶長元年八月に本格的な築城が始まり、同六年にほぼ完成した(高山公実録)

高虎は、慶長五年関ヶ原の戦功により、伊予国のうち二〇万石を与えられ、今治いまばり城を築造して同一三年に移転し、丸串城には城代を置いた。同年九月から同一八年一〇月まで富田信高が在城し、その後天領となり高虎が宇和郡の代官となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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