宇和島城下(読み)うわじまじようか

日本歴史地名大系 「宇和島城下」の解説

宇和島城下
うわじまじようか

宇和島城を中心として、その東南部に形成された城下町。東部の鬼が城おにがじよう山系から流れる北の辰野たつの川と南の神田じんでん川に囲まれ、両河川のつくる複合扇状地に立地する。

この地は中世には板島いたじま郷の中心で、板島と称されていた。宇和島と改称された時期については藤堂高虎が宇和郡領主となった文禄四年(一五九五)(「宇和旧記」注)など諸説があるが、慶長二〇年(一六一五)正月晦日、高虎の家臣田中林斎らが新領主伊達秀宗(政宗の長子)の惣奉行山家清兵衛に対し城地を引き継いだ時の文書に、予州板島御下屋敷之帳(伊達家史料)があり、藤堂氏の治政を通じて終期にいたるまで、板島という称呼が用いられたことは明らかである。一方、宇和島の地名が初めて史料にみえるのは元和七年(一六二一)五月愛宕あたご大権現(現宇和津彦神社)奉納の鰐口銘で、「予州宇和島居住桜田玄蕃助藤原元親」(宇和旧記)とある。したがって史料的には、伊達秀宗の入部にあたり、元和元年から同七年までの間に改称されたことになる。おそらく宇和郡の「宇和」と板島の「島」を合わせて宇和郡の中心地という意味をこめたのであろう。

〔中世・板島丸串城下〕

清良記」に、永禄六年(一五六三)土居清良が土佐国中村の一条氏から蓮池黒という馬をもらい「馬の速さを御ためしあるとて、板島の町にかよわせ」とある。この「板島の町」は、当時家藤監物が在城したという板島丸串まるぐし城の町であろう。天正三年(一五七五)二月監物に代わって西園寺宣久が在城する。天正一三年までの西園寺氏時代の丸串城下について「鶴鳴余韻秀宗公御事蹟」には次のように記されている。

<資料は省略されています>

さらに南側神田川の下手について次のように記す。

<資料は省略されています>

以上によると、北の竜光院りゆうこういん山と丸串城を結ぶ線の北西部は海、東の現竜華山等覚とうがく寺から城に線を引いたところを辰野川が流れ、丸串城下町は東は大榎おえのき通・大石おおいし町まで、南西部は神田川原の東部と城を結んだ線の内までの狭い地域であったことになる。なお戸田勝隆の時代(天正一五年―文禄三年)には、神田川下流を山側につけかえ、現在の佐伯町さえきまち辺りまでが造成された(鶴鳴余韻)

〔近世城下町の形成〕

藤堂高虎の時代(文禄四年―慶長一三年)には、丸串城の本格的築造に伴い城下町も面目を一新する。高虎の工事として、須賀川中間なかいだ村の上手から北へつけかえられ、これによって本町ほんまち五丁目・竪新町たてしんまち辺りが埋め立てられ、富田氏の時代(慶長一三―一八年)にかけて外郭が広められた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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