日本歴史地名大系 「宇賀村」の解説
宇賀村
うがむら
永万二年(一一六六)平重衡から後白河上皇に寄進され、のちに紀州高野山領となった
宇賀村
うかむら
宇賀村
うかむら
現西ノ島町の北東部を占める。中世は一帯に宇賀牧が成立していた。慶長一八年(一六一三)七月の検地帳(西ノ島町役場蔵)では屋敷反別二町三反余、家数六〇で、寺宮四・大工二・役人二・公文一・神主一を除く五〇が本百姓役屋敷分であった。正保国絵図に宇加村とみえ、ほかに宇加村内としてその東に「こうか」、同西に
宇賀村
うがむら
宇賀新田の西に位置する。西部の鈴鹿山麓に沿って巡見街道が南北に通り、それを中心として集落が形成されている。天平一六年(七四四)に奈良大安寺に施入された「阿刀野百町」の四至のうち、「南武賀河」(「大安寺伽藍縁起并流記資材帳」奈良市正暦寺蔵)が宇賀川のことかといわれており、この比定が妥当ならばこの地は当時大安寺領に接していたことになる。また「神鳳鈔」に内宮領「宇賀御厨十丁、三石、切田」の名がみえ、この御厨は建久四年(一一九三)に内宮・外宮両宮より神祇官に進上した注文に記載されていたという。「五鈴遺響」はこの村を「石榑ノ内ナリ」としており、宇賀御厨が
宇賀村
うかむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報