安乗村(読み)あのりむら

日本歴史地名大系 「安乗村」の解説

安乗村
あのりむら

[現在地名]阿児町安乗

国府こう村の北側、太平洋に突出た安乗崎にあり、的矢まとや湾の湾口を扼する。畔乗あのり(台記、志陽略誌)とも記す。字ふれい・字安乗崎には弥生期の遺物が出土し、字阿瀬あせには古墳群が、日和山ひよりやま庭の浜にわのはまには経塚がある。「台記」久寿元年(一一五四)五月二三日の条に「太神宮預伊雑神戸内膳司預畔乗御厨」とあるが「神鳳鈔」には御厨の記載はない。字小山こやまの現在神社となっている地は八幡山城跡で土塁が残っており三浦新助こと国府内膳の支城と考えられる。関ヶ原の戦で九鬼嘉隆・守隆父子が相戦ったとき守隆がここに拠った(寛政重修諸家譜)

近世を通じて鳥羽藩領で答志とうし郡に属した。志州四箇津(安乗・鳥羽・浜島・越賀)の一として繁栄した。外洋に近く、安乗崎に守られ波静かな良港で、船問屋・船宿妓楼が軒を並べた。船宿の名残に三河屋・大津屋・尾張屋・さつま屋などの屋号をもつ家々がある。「志摩国旧地考」にも「転漕之諸船多繋海湾」とあり、入港しきれない船は西にしの浦や長江ながえ浦に回航された(鳥羽志摩新誌)。全盛期には船問屋は一二軒あり組をつくり、その下に付船屋もあった。風待港としての発端は寛文一二年(一六七二)河村瑞軒が幕命により、出羽の天領米を馬関ばかん(現下関市)経由で江戸への航路を開くにあたり、安乗に幕府直轄の船番所を置き村人三橋安兵衛を浦役人とし灯明堂を設置してからである(志陽略誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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