安良村(読み)やつさむら

日本歴史地名大系 「安良村」の解説

安良村
やつさむら

[現在地名]石垣平久保ひらくぼ

平久保ひらくぼ半島の東岸、安良やつさ(三六六メートル)東麓の安良やつさ崎一帯にあった平久保ぺーぶぐ小村。屋次良とも書き、一時期独立した行政村であったが、乾隆三六年(一七七一)の明和大津波後、平久保村管轄となる。安良崎の北にはリーフ切れ目があって安良やつさ津口とよばれ、平久保小村の井原間いばろーま村が管轄していた。雍正一二年(一七三四)頃「やすら崎」と南の富盛とうむりい崎周辺には広い耕地があったため、石垣いしやなぎい登野城とうぬすく二村の百姓が仮住いしながら耕作していた。同年伊原間村を独立村とする際、これらの人々をそのまま居住させて「やすら村」・富盛とうむりい村を立て、伊原間村に管轄させたという(八重山島年来記・参遣状)。しかし乾隆二年の調査報告には伊原間村の小村に両村の名はない。翌三年平久保村から一里余にある「安良野」は東方の重要な津口で、三〇人ほどが小村を立てて住んでいるが、人家が遠く船の安全が図れないので、竹富てーどうん(現竹富町)から三〇〇人ほどを寄百姓して独立村にしたいという申請が出された。


安良村
やすらむら

[現在地名]出石町安良

伊豆いず村の北東に位置し、集落は六方ろつぽう(小野川)の右岸、八幡はちまん山の南西麓に発達。中世には山城石清水いわしみず八幡宮領すげ庄のうちで、八幡山には石清水八幡宮の別宮安良別宮(現八幡神社)を祀っていた。保元三年(一一五八)一二月三日付の官宣旨(石清水文書)で、領家・預所・下司・公文らの違乱を禁じた石清水八幡宮領の目録中に菅庄伊福いふく別宮(現日高町)などとともに「安良別宮」と記され、これら但馬の石清水八幡宮別宮は併せて「八別宮」とも称される。


安良村
やすらむら

[現在地名]江南市安良

今市場いまいちば村の南東にあり、中央をやなぎ街道が通り、街道沿いに人家が建並んでいた(天保村絵図)。寛保三年(一七四三)安良村亥新田検地帳(前田浩氏所蔵文書)に字名がみられ、そのうち北畑きたばた山之地やまのち四反畑よんたんばた宮越みやのこし猿御堂さるみどう郷中ごうなかは現存する。

応永一四年(一四〇七)の長講堂御領目録(八代恒治氏所蔵文書)に「同国(尾張)稲木庄 安良郷供僧長講衆」とあり、当村は稲木いなき庄の一郷で長講堂の供僧と長講衆が知行していた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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