朝鮮国王が修好のため日本に派遣した外交使節団。1811年までの約200年で、徳川将軍の代替わりの際などに12回来日した。一行は団長の「正使」を筆頭に、武官や文官、医師、楽隊ら300~500人の規模だった。韓国・釜山から海路で長崎・対馬に入り、瀬戸内海を航行後、関西から江戸などへ向かった。対馬藩が日本側の窓口となった。
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朝鮮王朝(李氏(りし)朝鮮)の国王が日本国王(日本の外交権者)に国書を手交するために派遣した使節。日本では朝鮮来聘使(らいへいし)ともいう。1404年(応永11)足利義満(あしかがよしみつ)が日本国王として朝鮮と対等の外交(交隣(こうりん))関係を開いてから明治維新まで、両国は基本的にその関係を維持した。それを具体化したのが両国使節の往来による国書の交換である。義満以来かなり両国使節の往来があったが、徳川将軍は直接使節を送らず、朝鮮も釜山(ふざん)以外への日本人の入国を禁じたので、近世では朝鮮使節が来日するのみとなり、国書の交換もその際にまとめて行われた。近世の朝鮮使節は1607年(慶長12)から1811年(文化8)まで12回来日した。日本側はこれらをすべて通信使と考えたが、朝鮮側は、初めの3回は徳川将軍からの国書(対馬(つしま)藩宗(そう)氏の偽作)への回答と、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役で日本に拉致(らち)された被擄人(ひりょにん)の刷還(さっかん)を目的とする回答兼刷還使を名目とした。この齟齬(そご)は柳川一件(やながわいっけん)を契機に修正され、以後9回は名実ともに通信使となった。
通信使一行は正使以下300人から500人で構成され、大坂までは海路、それ以東は陸路をとった。一行が日本国内を往来する際の交通宿泊費や饗応(きょうおう)はすべて日本側の負担であったが、通信使の来日は両国の威信をかけた外交行事でもあり、その接待は豪奢(ごうしゃ)を極め、経費は50万両とも100万両ともいわれた。近世中期以降の通信使は将軍の代替りごとに来日するのが例となっていたが、12回目は天明大飢饉(てんめいだいききん)のために延期され、行礼場所も対馬に変更されて、1811年にようやく実施された。その後はたびたび計画されながら財政難や外圧のために延期され、実現しないままに明治維新を迎えた。朝鮮側の通信使派遣には日本の国情偵察という目的もあり、来日のたびごとに詳しい観察記録が残されていて、外国人による近世日本についての貴重な記録の一つとなっている。なお1711年(正徳1)、新井白石(あらいはくせき)は、朝鮮側国書にある将軍の呼称を従来の「日本国大君(にっぽんこくたいくん)」から「日本国王殿下」に改めさせ、また使節の接遇を簡素化したが、白石失脚後はすべてもとの形態に戻された(殊号事件)。
[荒野泰典 2018年5月21日]
2017年(平成29)、日本国内12都府県と韓国に残る江戸時代の朝鮮通信使に関する外交資料が、「朝鮮通信使に関する記録」として、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の「世界の記憶」に登録された(日本・韓国の関係団体による共同申請)。
[編集部 2018年5月21日]
『宮崎道生著『新井白石の研究』増訂版(1966・吉川弘文館)』▽『中村栄孝著『日鮮関係史の研究 下』(1969・吉川弘文館)』▽『申維幹著、姜在彦訳『海游録――朝鮮通信使の日本紀行』(1974・平凡社・東洋文庫)』▽『映像文化協会編『江戸時代の朝鮮通信使』(1979・毎日新聞社)』
李氏朝鮮の国王が日本国王(日本の外交権者)に国書を手交するために派遣した使節。日本では朝鮮来聘(らいへい)使とも呼ぶ。1404年(応永11)足利義満が〈日本国王〉として朝鮮と対等の外交(交隣)関係を開いてから,明治維新にいたるまで,両国は基本的にはその関係を維持した。この関係にもとづいて,朝鮮からは通信使(派遣の名目によって回答使とされることもある)が来日し,日本からは〈国王使〉が派遣された。しかし,両国王使節の頻繁な往来は〈文禄・慶長の役〉までであった。徳川家康以後の歴代将軍は,対馬の宗氏が詐称した場合を除いて,直接使節を送らなかったので,朝鮮から通信使が来日するのみとなり,国書の交換もその際にまとめて行われることになった。徳川将軍への通信使は,通常,1636年(寛永13)から1811年(文化8)までの9回の〈通信使〉に,1607年(慶長12)から1624年(寛永1)までの3回の〈回答兼刷還使〉を加えて,前後12回とされている。初めの3回は,朝鮮側は,宗氏の偽作した国書に対する〈回答〉と,〈文禄・慶長の役〉の際に日本に拉致された朝鮮人の〈刷還〉を名目としたため,こう呼んだ。〈柳川一件〉で対馬での国書偽作などの不正が明らかになったのを契機に,使節の名目は〈通信使〉に改められ,朝鮮側の国書の宛先も〈日本国大君〉に改められた。〈大君〉号は1711年(正徳1)の8回目に,新井白石の建議によって一度〈国王〉とされるが,その後再び〈大君〉にもどされた。 1630年代末(寛永末年)からの〈鎖国〉政策と明・清交代などの国際情勢の変化によって,江戸幕府は,対外関係を中国・オランダとの〈通商〉,朝鮮・琉球との〈通信〉という狭い範囲に限定した。そのうち正式な外交関係を結んだ独立国は朝鮮のみであり,通信使の来日は,徳川将軍の国際的地位を検証する場として,大きな政治的意義をもった。また,日本の儒者などの知識人は使節の一行との交歓によって新知識を得,人民は珍しい異国の文物に接するなど文化的影響も大きかった。
通信使は,幕府の命をうけた対馬藩の要請によって,派遣が決定された。一行は,正使・副使・従事官の三使官と随員から成り,正使は文官の堂上官で吏曹参議の格が与えられ,随員にも才幹優れた者が選ばれた。総勢は平均400名ほどで,国書と贈物を携え,釜山と江戸の間を往復した。その送迎や接待は豪奢を極め,両国ともに財政的な負担は大きかった。日本側の費用は50万両とも100万両ともいわれる。そのため,12回目は天明の大飢饉により延期され,行礼場所も対馬に変更されて,1811年にようやく実施された(易地聘礼)。その後も通信使の派遣はたびたび計画されながら,財政難や外圧などのため延期され,実現しないままに明治維新を迎えた。通信使関係の記録は,日本側では《通航一覧》をはじめとして膨大な量が残っており,朝鮮側にも使節一行の紀行文など多くの記録が残っている。《海游録》など使節一行の紀行文にはその時代の日本の国情を冷静に観察し描写したものが多く,当時の日朝関係のみでなく,日本の文物・社会などを知る貴重な史料である(《海行摠載》所収)。
執筆者:荒野 泰典
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通信使・朝鮮信使・朝鮮来聘使・韓使とも。15~19世紀,朝鮮国王が日本の武家政権主宰者に対して派遣した使節。狭義にはそのうち来日目的や使節の称号などで一定の条件を満たす使節。15世紀,朝鮮王朝は日本情勢探索と倭寇(わこう)禁止要請のため通信使派遣を計画し,世宗期(1419~50)の3回は実際に足利将軍に会見した。1590年(天正18)の通信使は,豊臣秀吉の朝貢使要求を対馬の宗氏が通信使派遣にすりかえて交渉した結果実現した。江戸時代は,1607~1811年(慶長12~文化8)に合計12回朝鮮国王の使節が来日した。初期の3回は答礼と捕虜帰国のための派遣で,厳密には通信使ではないが,1655年(明暦元)以降は徳川将軍の代替りごとの派遣が定例となった。使節の人員は300~500人にのぼり,朝鮮・日本側とも多大の経費と労力をかけて準備と接待にあたった。日本各地には通信使に縁のある書籍・芸能・絵画などが残されており,使節が両国文化交流のうえで大きな役割をはたしたことを示している。しかし19世紀には両国とも消極的になり,1811年対馬での聘礼(へいれい)が最後になった。
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朝鮮王朝の国王が日本の最高権力者に国書を伝えるために派遣した使節。1404年に足利義満(よしみつ)に対して派遣したのが最初で,以後,1811年まで続いた。豊臣軍の朝鮮侵攻で両国の国交は中断されたが,徳川幕府は国交の再開を望み,対馬の宗氏(そうし)の努力もあって,1607年に回答兼刷還使(さつかんし)という名目で再開された。36年以後は通信使の名称が定着し,多くは徳川将軍の襲職慶賀を名目に派遣された。室町時代には両国の使節が互いに都まで派遣されたが,江戸時代には日本側の使節は東莱(とうらい)(釜山(プサン))の倭館に派遣が認められるだけであった。朝鮮から派遣される使節の規模は数百人にのぼり,江戸までの道中では文人たちとの詩文の交換など,盛んな歓待を受けた。
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…また田畑割が〈数十年滞候場所も有之〉(田畑割御定法)と1847年(弘化4)に指摘される事態にもなった。ところで,壱岐は朝鮮通信使の往来の際の滞在地であり,1763年(宝暦13)のおりには一行480余人が11月3日勝本に着港し,12月3日まで滞在したように日本と朝鮮との交流上で重要な役割を果たした。1805年(文化2)に伊能忠敬が島内を実測し,61年(文久1)には外国船が入港した。…
…1719年(享保4),徳川吉宗の将軍職襲位を賀す朝鮮通信使(正使洪致中)の製述官申維翰の日本紀行文。内容は日本の自然,物産,文物,制度,人情,世相,風俗の観察から,対馬藩真文役雨森芳洲,大学頭林信篤などとの筆談にまで及ぶ。…
…普請費用の膨張に伴い,この限度額の制度は1866年(慶応2)に廃されたが,明治政府の下では高100石あたり金1両2分の賦率とされている。
[朝鮮信使国役]
将軍の代替りに来日する朝鮮信使(朝鮮通信使)の逓送については,従来,沿道諸国の大名の人馬供出をもってなされていたが,1719年(享保4)の来日時より請負の通し人馬によってこれを賄い,その費用が21年に畿内より武蔵国までの東海道16ヵ国の農民から高100石あたり金3分余の国役金として徴収された。その後この国役は信使の来日ごとに課されたが,1808年(文化5)のときには日本全国に対して惣国役として高100石あたり金1両が賦課された。…
…江戸幕府が外交文書において将軍を表す語として用いた〈日本国大君〉の略称。3代将軍徳川家光のとき,朝鮮との国交修復に際し対馬藩主の宗氏が将軍の号を〈日本国王〉と改作した事件が起き,これを機に幕府は朝鮮に対し1636年(寛永13)来日の朝鮮通信使から〈日本国大君〉の称号を使用させた。以後6代将軍家宣のとき新井白石の建議で一時〈日本国王〉に変更されたが,8代将軍吉宗は大君を復活,幕末の日米和親条約以降欧米諸国との往復文書にも用いられ,1868年(明治1)天皇が外交権を接収するまで続いた。…
…朝鮮からは1607‐24年までに3回の回答兼刷還使,1636‐1811年までに9回の通信使(約200年間に合計12回,毎回総勢300~500人に及ぶ使節団一行)が来日した。この朝鮮通信使を介しての国交は徳川将軍(日本国王あるいは日本国大君)と朝鮮国王との対等な善隣関係として行われ,日本は鎖国(1639)後も朝鮮とは唯一,正式の国交関係を保った。日本の要請にもかかわらず明は国交に応じなかったため,朝鮮との国交,朝鮮使節の来日は徳川将軍の国際的地位を示すものとして重視され,幕府は朝鮮使節を盛大にもてなした。…
※「朝鮮通信使」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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