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朝鮮通信使 ちょうせんつうしんし

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

朝鮮通信使
ちょうせんつうしんし

室町時代以後,朝鮮国王が日本に派遣した使節の,1636年以降の名称 (→朝鮮使節 ) 。江戸時代には 12回に及んだ。一行はプサン (釜山) から対馬を経て大坂に到着し,京都から江戸へ東海道を下った。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

朝鮮通信使

江戸時代に朝鮮王朝が日本に派遣した外交使節豊臣秀吉の朝鮮出兵によって途絶えた国交を回復させようと1607年、徳川家康が招いたことに始まる。 江戸幕府の将軍が代わるごとに日本を訪れ、学問や文化の交流も深めた。使節団は対馬から日本へ入り、対馬藩が朝鮮との外交交渉を担った。

(2016-11-04 朝日新聞 夕刊 1社会)

朝鮮通信使

江戸時代に朝鮮王朝が日本に派遣した外交使節。豊臣秀吉の朝鮮出兵によって途絶えた国交を回復させようと1607年、徳川家康が招いたことに始まる。江戸幕府の将軍が代わるごとに日本を訪れ、学問や文化の交流も深めた。使節団は対馬から日本へ入り、対馬藩が朝鮮との外交交渉を担った。

(2016-11-05 朝日新聞 朝刊 筑後・1地方)

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デジタル大辞泉の解説

ちょうせん‐つうしんし〔テウセン‐〕【朝鮮通信使】

朝鮮国王が日本に派遣した外交使節団。江戸時代、主に将軍の代替わりの際などに来日し、慶長12年(1607)から文化8年(1811)まで12回を数えた。朝鮮使節

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百科事典マイペディアの解説

朝鮮通信使【ちょうせんつうしんし】

朝鮮来聘使(らいへいし)ともいう。江戸時代将軍代替りやその他の慶事に際し,李氏(りし)朝鮮(李朝)の国王から派遣された使節。豊臣秀吉朝鮮侵略文禄・慶長の役)後,徳川家康は対馬宗(そう)氏を通じて国交回復につとめ,1605年の日韓和約で国交が回復。
→関連項目異国日記牛窓津国役鎖国大君対馬藩日朝修好条規本陣美濃路耳塚

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世界大百科事典 第2版の解説

ちょうせんつうしんし【朝鮮通信使】

李氏朝鮮の国王が日本国王(日本の外交権者)に国書を手交するために派遣した使節。日本では朝鮮来聘(らいへい)使とも呼ぶ。1404年(応永11)足利義満が〈日本国王〉として朝鮮と対等の外交(交隣)関係を開いてから,明治維新にいたるまで,両国は基本的にはその関係を維持した。この関係にもとづいて,朝鮮からは通信使(派遣の名目によって回答使とされることもある)が来日し,日本からは〈国王使〉が派遣された。しかし,両国王使節の頻繁な往来は〈文禄・慶長の役〉までであった。

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大辞林 第三版の解説

ちょうせんつうしんし【朝鮮通信使】

江戸幕府の将軍の代替わりなどに際し、朝鮮国王から派遣された祝賀使節。1607年から1811年にかけて、一二回来日。朝鮮使節。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

朝鮮通信使
ちょうせんつうしんし

李氏(りし)朝鮮の国王が日本国王(日本の外交権者)に国書を手交するために派遣した使節。日本では朝鮮来聘使(らいへいし)ともいう。1404年(応永11)足利義満(あしかがよしみつ)が日本国王として朝鮮と対等の外交(交隣(こうりん))関係を開いてから明治維新まで、両国は基本的にその関係を維持した。それを具体化したのが両国使節の往来による国書の交換である。義満以来かなり両国使節の往来があったが、徳川将軍は直接使節を送らず、朝鮮も釜山(ふざん)以外への日本人の入国を禁じたので、近世では朝鮮使節が来日するのみとなり、国書の交換もその際にまとめて行われた。近世の朝鮮使節は1607年(慶長12)から1811年(文化8)まで12回来日した。日本側はこれらをすべて通信使と考えたが、朝鮮側は、初めの3回は徳川将軍からの国書(対馬(つしま)藩宗(そう)氏の偽作)への回答と、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役で日本に拉致(らち)された被(ひりょにん)の刷還(さっかん)を目的とする回答兼刷還使を名目とした。この齟齬(そご)は柳川一件(やながわいっけん)を契機に修正され、以後9回は名実ともに通信使となった。
 通信使一行は正使以下300人から500人で構成され、大坂までは海路、それ以東は陸路をとった。一行が日本国内を往来する際の交通宿泊費や饗応(きょうおう)はすべて日本側の負担であったが、通信使の来日は両国の威信をかけた外交行事でもあり、その接待は豪奢(ごうしゃ)を極め、経費は50万両とも100万両ともいわれた。近世中期以降の通信使は将軍の代替りごとに来日するのが例となっていたが、12回目は天明大飢饉(てんめいだいききん)のために延期され、行礼場所も対馬に変更されて、1811年にようやく実施された。その後はたびたび計画されながら財政難や外圧のために延期され、実現しないままに明治維新を迎えた。朝鮮側の通信使派遣には日本の国情偵察という目的もあり、来日のたびごとに詳しい観察記録が残されていて、外国人による近世日本についての貴重な記録の一つとなっている。なお1711年(正徳1)、新井白石(あらいはくせき)は、朝鮮側国書にある将軍の呼称を従来の「日本国大君(にっぽんこくたいくん)」から「日本国王殿下」に改めさせ、また使節の接遇を簡素化したが、白石失脚後はすべてもとの形態に戻された。[荒野泰典]
『申維幹著、姜在彦訳『海游録――朝鮮通信使の日本紀行』(1974・平凡社・東洋文庫) ▽中村栄孝著『日鮮関係史の研究 下』(1969・吉川弘文館) ▽映像文化協会編『江戸時代の朝鮮通信使』(1979・毎日新聞社) ▽宮崎道生著『新井白石の研究』増訂版(1966・吉川弘文館)』

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世界大百科事典内の朝鮮通信使の言及

【壱岐島】より

…また田畑割が〈数十年滞候場所も有之〉(田畑割御定法)と1847年(弘化4)に指摘される事態にもなった。ところで,壱岐は朝鮮通信使の往来の際の滞在地であり,1763年(宝暦13)のおりには一行480余人が11月3日勝本に着港し,12月3日まで滞在したように日本と朝鮮との交流上で重要な役割を果たした。1805年(文化2)に伊能忠敬が島内を実測し,61年(文久1)には外国船が入港した。…

【海游録】より

…1719年(享保4),徳川吉宗の将軍職襲位を賀す朝鮮通信使(正使洪致中)の製述官申維翰の日本紀行文。内容は日本の自然,物産,文物,制度,人情,世相,風俗の観察から,対馬藩真文役雨森芳洲,大学頭林信篤などとの筆談にまで及ぶ。…

【国役】より

…普請費用の膨張に伴い,この限度額の制度は1866年(慶応2)に廃されたが,明治政府の下では高100石あたり金1両2分の賦率とされている。
[朝鮮信使国役]
 将軍の代替りに来日する朝鮮信使(朝鮮通信使)の逓送については,従来,沿道諸国の大名の人馬供出をもってなされていたが,1719年(享保4)の来日時より請負の通し人馬によってこれを賄い,その費用が21年に畿内より武蔵国までの東海道16ヵ国の農民から高100石あたり金3分余の国役金として徴収された。その後この国役は信使の来日ごとに課されたが,1808年(文化5)のときには日本全国に対して惣国役として高100石あたり金1両が賦課された。…

【大君】より

…江戸幕府が外交文書において将軍を表す語として用いた〈日本国大君〉の略称。3代将軍徳川家光のとき,朝鮮との国交修復に際し対馬藩主の宗氏が将軍の号を〈日本国王〉と改作した事件が起き,これを機に幕府は朝鮮に対し1636年(寛永13)来日の朝鮮通信使から〈日本国大君〉の称号を使用させた。以後6代将軍家宣のとき新井白石の建議で一時〈日本国王〉に変更されたが,8代将軍吉宗は大君を復活,幕末の日米和親条約以降欧米諸国との往復文書にも用いられ,1868年(明治1)天皇が外交権を接収するまで続いた。…

【李朝】より

…朝鮮からは1607‐24年までに3回の回答兼刷還使,1636‐1811年までに9回の通信使(約200年間に合計12回,毎回総勢300~500人に及ぶ使節団一行)が来日した。この朝鮮通信使を介しての国交は徳川将軍(日本国王あるいは日本国大君)と朝鮮国王との対等な善隣関係として行われ,日本は鎖国(1639)後も朝鮮とは唯一,正式の国交関係を保った。日本の要請にもかかわらず明は国交に応じなかったため,朝鮮との国交,朝鮮使節の来日は徳川将軍の国際的地位を示すものとして重視され,幕府は朝鮮使節を盛大にもてなした。…

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