宮平村(読み)なーでーらむら

日本歴史地名大系 「宮平村」の解説

宮平村
なーでーらむら

[現在地名]南風原宮平みやひら

ウグヮンモーなどの丘陵の南斜面から宮平みやひら(メーガーラ)に広がる村。東は与那覇ゆなふあ村、西は兼城かにぐしく村、南は大里うーざとう間切古堅ふるぎん(現大里町)。首里城にある嘉靖二二年(一五四三)八月の国王頌徳碑(かたのはなの碑)に「ミや平大やくもい」とみえる。兼城を村立てした稲福大主の長男宮平大屋子が移住し、善縄大屋子一族が村立て、大里から来た大国大主が地組をしたという。南風原ふえーばる間切最大の村で番所が置かれていた。


宮平村
みやびらむら

[現在地名]荻町柏原かしわばる

橘木たちばなき川の南、大野川の北に位置する標高五四〇メートル前後の台地上にある村。「豊後国志」直入郡神祠・田代たしろ八幡祠の項に「在柏原郷宮平村、暦応中、祭新田義貞霊、後称八幡」とある。この地方と新田義貞との直接のつながりは史料では確認できないが、肥後・日向・豊後三ヵ国の国境に位置する当地方は南北朝時代にはきわめて複雑な位置にあった。したがってここに新田義貞を祀るという伝承もあながち無視できない側面をもっている。正保郷帳では柏原郷に属し、田方四石余・畑方四四石余。万治元年(一六五八)には田高六石余・畑高四一石余・屋敷高九斗余とある(荻町史)


宮平村
みやだいらむら

[現在地名]柏崎市宮平

東は鯖石さばいし川を挟んで善根ぜごん村、西は山深く近辺に村里なく、南は石曾根いしぞね村、北は与板よいた村。永禄三年(一五六〇)一〇月吉日の貫屋家兼売券案(来田文書)に「宮たいら」とあり、伊勢御師の檀那がいたとみられる。近世の支配は柏崎町に同じ。正保国絵図に高七四石余。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳に高二七九石八斗とある。これは片屋敷かたやしき村高二〇五石と合したものである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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