柏原村(読み)かしわばるむら

日本歴史地名大系 「柏原村」の解説

柏原村
かしわばるむら

[現在地名]鶴田町柏原

神子こうし村の南西、蛇行しながらほぼ南へ流れる川内せんだい川西岸にある。南部で同川に南流してきた支流の夜星やせい川が合流する。北西は鶴田郷紫尾しび村、西・南部は宮之城みやのじよう平川ひらかわ村・虎居とらい村・時吉ときよし(現宮之城町)など。当地の大願だいがん(現廃寺)が「郡山大願寺」などとも称されたことから答院旧記)、古代の郡衙が置かれたとも推定され、薩摩在国司大前氏から分れたけどう院郡司系の大前氏の勢力下にあったとみられる。宝治二年(一二四八)相模国から渋谷氏の一族が下向し、渋谷光重三男重保(重直)答院地頭として入部、渋谷氏系答院氏の祖となったとされる。初代重保は当初柏原を姓としたこと、答院氏の菩提寺大願寺や一族・寺僧の墓石群が残ること、応永一〇年(一四〇三)一二月一三日の渋谷重頼宛島津元久契状(入来院文書)に東郷殿と並んで柏原殿とよばれていることなどから、答院氏代々の本拠地であったと推定される。

正応元年(一二八八)八月一一日の行蓮譲状案(斑目文書)に「薩摩国答院柏原の内、河口の野并其内のあらひ新田弥源次入道作等」とみえ、行蓮(渋谷重松)に代わり異国警固役を勤める舎弟斑目兵衛二郎入道聖蓮に譲り渡すとある。「河口の野」「あらひ新田」は柏原北部の川口かわぐちおよび神子の新田しんでんに各々比定される。同二年九月五日の斑目聖蓮譲状案(同文書)によれば、「柏原内下河口田在家等」が孫三郎景泰へ譲与されている。


柏原村
かしわばらむら

[現在地名]狭山市柏原

柏原新田の西、北東流する入間いるま川左岸にある。高麗こま郡に属し、北は笠幡かさはた村・安比奈あいな新田(現川越市)下大谷沢しもおやざわ(現日高市)、東は入間郡下奥富しもおくとみ村・上奥富村。西の上広瀬かみひろせ村を通称奥州道ともよばれる信濃街道(古鎌倉街道か)が南北に通る。「吾妻鏡」文治五年(一一八九)七月一九日条に、奥州に向かった畠山重忠に従う五騎のなかに「柏原太郎」の名があり、この柏原太郎は当地を本拠とする武士とする説がある(風土記稿)。応永(一三九四―一四二八)頃当地に移住したとされる増田大水正金が鍛えた槍(増田家蔵)に「武州柏原住大水作」の銘がある。剣明けんめい神社に文明一八年(一四八六)一一月一五日に奉納された懸仏(長谷川家蔵)の銘に「武州柏原住又三郎」の名がみえる。当地には柏原鍛冶を名乗る集団が居住し、永禄八年(一五六五)四月二八日の北条氏照印判状(新井文書)によると、柏原鍛冶新居新左衛門尉は年間二〇挺の鑓を納める代りに一二軒分の棟別銭が免除され、公用以外の鑓の注文は印判状で行い、日当を支払うこととされている。鋳物師集団も居住し、同一〇年一〇月吉日八王はちおう(現飯能市)へ奉納の懸仏の銘に「武州柏原神田神□□(四郎カ)」とあり、当地円光えんこう寺の銅造聖観音立像の背面の元亀三年(一五七二)一二月吉日銘、白鬚しらひげ神社の天正一八年(一五九〇)一二月二一日銘の懸仏などに「大工神田」とある。小田原衆所領役帳には他国衆師岡山城守の所領として高麗郡の「柏原」四五貫文がある。

近世には高麗郡かすみ郷に属した(風土記稿)。天正一九年五月の検地帳写(長谷川家文書)が五冊のうち一冊のみ残る。畑反別は上畑二町二反小六歩・中畑三町八反半三七歩・下畑六町二反小歩。


柏原村
かしわらむら

[現在地名]柏原市本郷ほんごう一―五丁目・ふる町一―三丁目・いま町一―二丁目・大正たいしよう町一―三丁目

志紀郡中央部東端に位置し、宝永元年(一七〇四)の大和川付替え以前は左岸、付替え後は右岸となる。また大和川の分流である平野川(了意川)が村の北部を西流、付替え後は新大和川の青地あおじ樋から水を引いた井路川が村中を北流、平野川に注いで同川の上流となった。古代の「渋河路」の後身とみられる奈良街道が通り、江戸時代には街道沿いに商家が並んだが、古代・中世の様子は不明。これは亀瀬かめのせの峡谷を抜けてきた大和川と南河内の金剛山麓から流れ出てきた石川が、当村のすぐ南方で合流、水の勢いも強く、大和川の付替え以前は洪水の常襲地帯であったことが大きく影響している。大和川付替え以前の洪水被害を柏原船由緒書(「柏原町史」所引)によってみると次のようである。元和六年(一六二〇)五月二四日の洪水では当村の堤が切れた。寛永一〇年(一六三三)八月一〇日にも洪水となり、堤が切れた。石川・大和川の濁流が流れ出て当村の家四五軒が流失、死者三六人を出し、牛馬六疋も死んだ。田も二〇〇石余分が川成となった。当村の三田浄久の著した「河内鑑名所記(延宝七年刊)も「しやうぎの森、むかしハ、大きなる森ニて有けるを、元和六申ノ五月ニ柏原堤三百間切レ、又寛永十酉ノ八月ニ同所きれ侍り、其時此森破失して少残り于今あり」とある。「しやうぎの森」はいま平野川のすぐ西にあり、柏原小学校の隣、保健所のある所。洪水にあった柏原村の復興のため、代官末吉氏の発案で柏原船が計画された。


柏原村
かしわばるむら

[現在地名]荻町柏原

北に山崎やまさき(岩戸川)が東流し、南に大野川が北東流する溶岩台地に位置する。中央部を橘木たちばなき川が東流し、比較的平地が多く水田が展開するが、東西には山林が多い。「豊後国風土記」にみえる直入郡柏原郷、中世直入郷柏原名(村)の遺称地。天正一四年(一五八六)一〇月二〇日島津義弘の先鋒新納忠元が志賀親善を討たんとして豊後・肥後両国にわたる波野なみの原に向かい、親善は兵を波野一二口に派遣して防いだという(大友家文書録)。その一つに柏原口があり、隊長は後藤遠江守で「大友興廃記」によると一五〇人となっている。

「中川氏年譜」によれば、文禄二年(一五九三)閏九月一三日「大友家の老臣たりし田原近江入道紹忍、太閤より、柏原郷松本邑合せて、二千九百十三石四斗食邑を下さる。宗像掃部、葎原郷にて千八百五十石余同断。御当家の御幕下に仰せ付けられ、御幟等御預け置かる」とある。一一月一九日豊臣秀吉は中川秀成に豊後国直入郡二万九千三八石・同大野郡内三万六千九六二石、都合六万六千石を宛行った(中川史料集)。この年の打入の節、小出(垣田氏)対馬守の子孫である新太郎が柏原郷橘木村千石庄屋(大庄屋)を仰せ付けられ柏原郷を支配した(「勤仕歴代調書」垣田家文書)


柏原村
かしわばらむら

[現在地名]山東町柏原

現山東町の東部に位置し、東・南・西を山地に囲まれた平地。中世柏原庄が成立。古代の東山道に沿い、近世には中山道の宿駅として栄えた。西から西町にしまち(村)今川いまがわ町・市場いちば町・宿村しゆくむら町・ひがし町の五集落からなる。西町に元禄二年(一六八九)まで柏原御殿があった。天正一九年(一五九一)四月の御蔵入目録(林文書)に「柏原・岩滝」とみえ、高一千九一七石余、豊臣秀吉の直轄領。寛永石高帳・正保郷帳では幕府領一千八二三石余・成菩提じよぼだい院領一六〇石余。幕府領分の正保四年(一六四七)の免状写(山東町史)によると、村高から除地・永荒などを引き、有高一千六〇九石余で、年貢高七四七石余。万治三年(一六六〇)には永荒等の控除が多く、年貢は村高の一三パーセントであった(山東町史)。享保九年(一七二四)幕府領が大和郡山藩領になり、以後幕末まで同藩領。享保九年大和郡山領郷鑑では、延宝七年(一六七九)の検地高二千一四一石余、反別田一三二町七反余・畑六九町余・荒地五町九反余・屋敷五町八反余、家数四五七(うち本役四〇四・寺社隠居独居五三)・人数一千六五四。


柏原村
かしわばらむら

[現在地名]茅野市北山きたやま 柏原

湯川ゆがわ村の北、大門だいもん峠の南方にあり、大門峠を境に北佐久郡立科たてしな町、小県ちいさがた長門ながと町に接する。集落は大門道(善光寺道)に沿い、標高一〇〇〇―一〇三〇メートルの緩斜面に南北に連なっている。西側を音無おとなし川(かみ川の支流)が南流し、北端の池の平いけのたいら白樺しらかば湖)から西へビーナスライン有料道路霧ヶ峰きりがみね―白樺湖線が通じている。

嘉禎三年(一二三七)の奥書をもつ「祝詞段」に「柏原ニ子ノ神」とあるのが初見。標高一四二〇メートルの白樺湖岸、特に御座岩ございわ遺跡周辺には先土器時代からの各種石器、縄文・弥生土器、土師器、施釉陶器及び内耳土器などの各時代の土器類、祭祀用とされる滑石製模造品が発見されており、この地が数千年にわたり、常に交通の要衝にあたっていたことを示している。


柏原村
かしわばらむら

[現在地名]信濃町大字柏原

現信濃町の中央部。東は柴津しばつ村、南は古間ふるま(鳥居川)をもって大古間おおふるま村・はら村、西は黒姫くろひめ山麓の入会地、北は野尻のじり村に接する。黒姫の山麓に東南西に傾斜して展開する八二〇メートルから六六〇メートルの高原性平地である。村の東部を南北に北国脇往還が通じ、柏原宿を中心にして、街道の西方に南から仁之倉にのくら熊倉くまくら赤渋あかしぶ、東方に大久保おおくぼの諸集落がある。元禄七年(一六九四)から文化五年(一八〇八)の間、東柏原ひがしかしわばら村(現三水さみず村)に対し、西柏原村とよばれることがある(長野県町村誌)

古昔は太田おおた郷に、中世は芋川いもかわ庄に、戦国時代は熊坂くまさか郷に属した。天文三年(一五三四)の頃、仁之倉の地に真宗の僧が居住しており(→仁之倉新田村、時代は不明であるが、仁之倉の南に接する字五輪堂ごりんどう・同川原かわはら・同川久保かわくぼに村民が住んでいたと伝える(長野県町村誌)が、慶長七年(一六〇二)の森検地帳に「五拾六石七斗壱升八合 柏原村」とみえるのが初見である。


柏原村
かしわばらむら

[現在地名]穂高町大字西穂高にしほたか 柏原

からす川扇状地の中央部に立地、末端は湿地帯の矢原やばら村に隣接している。明応一〇年(一五〇一)の三宮穂高社御造宮定日記(穂高神社蔵)に「柏原」がみえる。矢原沢に沿った地域には矢原村同様方格地割がみられ、また、大糸線柏矢町はくやちよう駅の西方には弥生式土器や土師器が、大つぼ沢沿いの長者池付近からは須恵器の壺・甕などが出土しており、烏川扇状地の扇端部分から開拓が始まっていることが知られる。柏原村の中央にあたる中村には堀の内ほりのうち番匠田ばんじようだ中海渡なかがいと常見海渡つねみがいとなどの地字がみられる。

〔久保田〕

烏川扇状地の扇頭部に位置しており、柏原村の内原に元禄一一年に開発。承応三年矢原堰の成立によって、これまで矢原村の用いていた矢原沢の水に余裕ができ開発が許可されたものであろう。元禄一一年の検地帳によれば、田三町九段余、畑二町五段余、屋敷一町一段余、計七町六段余を新開。


柏原村
かしはらむら

[現在地名]南区柏原・柏原一―七丁目・大平寺たいへいじ一―二丁目

檜原ひばる村の南にある。早良さわら郡に属し、東は那珂なか屋形原やかたばる村、同郡片縄かたなわ(現那珂川町)、南は同郡後野うしろの(現同上)。村名は樫原とも書く(続風土記)樋井ひい郷の村のうちもっとも上流にあり、南部山間に発した樋井川(田島川・山田川ともいう)が北東へ流れる。南の那珂郡西畑にしはた(現那珂川町)へ越える道ははぎはる越という(続風土記)。中世には比伊ひい郷に属した。正応元年(一二八八)一〇月三日、弘安四年(一二八一)の蒙古合戦の恩賞として薩摩国の御家人渋谷氏(入来院氏)に比伊郷地頭職と行武ゆきたけ名・若国名の田地一〇町など(「蒙古合戦勲功地配分状」入来院文書/鎌倉遺文二二)、大隅国の御家人禰寝氏に同郷地頭職と上乙王丸名の田地五町などが配分された(「蒙古合戦勲功賞配分状」禰寝文書/鎌倉遺文二二)


柏原村
かしわばらむら

[現在地名]飯田市上久堅かみひさかた

現飯田市北東部、知久平ちくだいら東方、伊那山脈中にある山間の小平坦地域に立地。北は上虎岩かみとらいわ村・富田とみだ村(現下伊那郡喬木たかぎ村)・小川おがわ(現同郡同村)、東は小川村、南は野池のいけ村・柏原村山分、西は柿野沢かきのさわ村・南原みなばら村・尾科おしな村に接する。

中世は知久郷に属し、天文一〇年(一五四一)正月の諏訪社上社の神使御頭之日記によれば、柏原の知久氏は内県の神使御頭の宮付(頭役)を勤めている。

柏原は水利・日照ともに恵まれ、盆地の中央部は相当の地力もあり、比較的に経済条件に恵まれた地域で、柏原の中心地風張かざはりから東方越久保こいくぼ汗馬沢かんばさわを過ぎて堂屋敷どうやしきから小川路おがわじ峠を越えて遠山谷へ、南は小野子おのご落倉おとしぐらを経て米川よねがわへ、北は富田を経て小川を過ぎて阿島あじま(現下伊那郡喬木村)へ出ることができる。


柏原村
かしはらむら

[現在地名]高月町柏原

渡岸寺どうがんじ村の北、高時たかとき川西岸に立地。古代の伊香郡柏原かしわはら(和名抄)の遺称地。慶長七年(一六〇二)の検地帳(「太閤検地論」所収)によれば田二八町五反余・高四一一石余、畑一町三反余・高一七石、荒(地)七町六反余・高九二石余、屋敷七反余・高九石余。名請人数一二四、うち三反以下八四人、屋敷筆数七〇。寛文一三年(一六七三)の検地では田二六町五反余・高三七九石余、畑三町二反余・高二八石余、屋敷一町七反余・高二二石余(伊香郡志)


柏原村
かしはらむら

[現在地名]猪名川町柏原

川辺郡の最北端、大野おおや山の南麓に位置する。南側を柏原川が南東流し、それに沿って丹波への道が通る。北は丹波国多紀たき後川しつかわ(現篠山市)、西は有馬ありま小柿こがき(現三田市)、南は同郡末吉すえよし(現同上)。慶長国絵図に記載がなく、元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では六瀬むつせ一〇ヵ村のうちとして「栖原」とある。正保郷帳では柏原村とあり、高二一一石余。延宝七年(一六七九)の検地帳(柏原自治会文書)によれば新検高二八一石余で、古検高(慶長二年)は二三四石余であったという。天和三年(一六八三)頃の摂津国御料私領村高帳では高二一一石余と別に新田二二石余が記される。


柏原村
かしわばらむら

[現在地名]榛原町静波しずなみ

柏原町の東に位置し、東は植松うえまつ村。永禄一二年(一五六九)一〇月四日の知行書立写(松平乗承所蔵古文書)に松平真乗に引渡される知行分として柏原二一五貫二〇〇文とある。天正一七年(一五八九)七月七日の徳川家七ヵ条定書(大石文書)によると、徳川氏は遠州柏原百姓らに対し七ヵ条の条規を定めている。文禄二年検地高目録では高四〇八石余。寛永二一年(一六四四)の掛川領三万石郷村高帳では高四七〇石余。江戸時代の領主の変遷は確認できる限り川崎町かわさきちよう村と同じ。


柏原村
かしわらむら

[現在地名]名張市赤目あかめ町柏原

星川ほしかわ村の西に位置し、西は一之井いちのい村と接する。たき川およびかじ川が村中を流れ、東南に高天原たかまがはら(四六六・二メートル)がそびえる。嘉元二年(一三〇四)正月一四日の黒田庄有徳人交名注進状案(東大寺文書)に「カシハヽラ」とあり、有徳人四人がいた。黒田くろだ庄の出作地として開発された地で、俗にカショバラともいう。鎌倉末期から南北朝にかけて、浄覚なる悪党が住んでいた(暦応三年九月日「黒田庄悪党人交名」東大寺文書)

江戸時代は元禄四年(一六九一)古検を改め、本高三五八・三四一石、平高五一六・五九石。寛延(一七四八―五一)頃の戸数七四、人口三〇九、馬一、牛一八。


柏原村
かせばらむら

[現在地名]亀岡市しの町柏原

東は馬堀うまほり(西川)、西は年谷としたに川の間に位置し、村の中央を東西に京街道(山陰道)が貫き、西行すれば亀山かめやま城下に入る。年谷川の橋は京街道を西へ城下三宅みやけ町へ架かっていたが、寛永年中(一六二四―四四)城主菅沼定昭は城下がまっすぐに見通されるのはよくないとして、川端で道を両側とも南に折り、橋を少し南に架け替えた(桑下漫録)


柏原村
かしわばらむら

[現在地名]五所川原市 末広すえひろ町・蘇鉄そてつにしき町・芭蕉ばしよう、柏原町の一部

岩木川下流右岸に位置し、東は平井ひらい村、東南は喰川しよくかわ村、北は新宮しんみや村に接する。

寛文四年(一六六四)の高辻帳に二二七・七四六石とある。貞享四年(一六八七)の検地帳は喰川村支村柏原村として田方二三町三反一畝一五歩、屋敷を除いた畑方二町九反五畝四歩、田畑屋敷合せて二八町八反三畝一六歩、村高二二七・七四六石と記す。「平山日記」によると寛文年間から開発の五所川原村に続いて開かれた。「五所川原町誌」は、貞享四年川端領大曲が喰川村支村柏原村となったとする。元禄三年(一六九〇)には広田組に属し、村位は下で、家数一五、うち庄屋一・百姓八・水呑六であった(平山日記)


柏原村
かしはらむら

[現在地名]丹生川村柏原

吉城よしき郡に属し、東は三之瀬さんのせ村、南は大野郡下保しもぼ村、西は宮地みやじ(現吉城郡国府町)。慶長一〇年(一六〇五)飛騨国郷帳の荒木あらき郷に村名がみえ、折敷地おしきじ村などとともに高付される。同一八年郷帳では柏原村として高五八石余。元禄検地反歩帳では高七六石余、田四町四反余・畑七町二反余。「飛騨国中案内」によれば免は三割八分四厘九毛、家数一三、うち百姓一一・地借二。天明八年(一七八八)の高七六石余、反別田四町余・畑七町二反余、家数一四・人数八〇、馬五(村明細帳)奥荒城おくあらき五ヵ村の一村として享保九年(一七二四)以降炭竈運上を納めた。同年の窯数三・運上四九三文(丹生川村史)。天保一二年(一八四一)には炭竈稼一四軒・人足二〇人であった(大野郡史)


柏原村
かせばらむら

[現在地名]橋本市柏原

紀ノ川の支流山田やまだ川沿いにあり、東から南にかけては村。「続風土記」は加志波婆良かしはばらの訓注を付し、正応六年(一二九三)八月一五日の柏原御堂結衆田券紛失状(西光寺文書)には「膳原」とあり、弘和元年(一三八一)一二月一九日の千鶴田地売渡状(同文書)には「カシワハラ」、天正三年(一五七五)一二月二日のイシヨ院納米請取切符(同文書)には「カシヨハラ」とみえる。


柏原村
かしはらむら

[現在地名]能勢町柏原

大里おおざと村の南に位置し、東に竜王りゆうおう山、西に吉山よしやま丘陵をひかえる。中央を大路次おおろじ川が南流する。竜王山北側に下田尻しもたじり村への道が通り、途中に名月めいげつ峠がある。付近の名月古墳(現在消滅)からは須恵器を出土、また名月姫墓所と伝えられ、鎌倉後期のものとされる宝篋印塔がある。能勢郡西郷郷士覚書写(東家文書)に南北朝初期と推定される柏原村の徳平氏・柏原氏など一〇氏の名が書上げられている。文亀元年(一五〇一)から間もない頃のものと推定される月峯寺水帳(月峯寺文書)にも村名が散見。永禄二年(一五五九)二月九日の能勢郡諸侍書上覚写(井戸家文書)に柏原村諸侍が書上げられている。


柏原村
かしはらむら

[現在地名]神岡町柏原

山田やまだ川源流域に位置し、旧街道に沿って集落がある。西の太江たいえ(現古川町)に行く峠を神原かんばら峠といい、東は巣山すやま村、南は桐谷きりだに(現国府町)。慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳では、「高原山田郷之内荒共須山、柏原共ニ」として田方五八石余・畑方二六石余、物成合一六石余。同一八年の郷帳では高原たかはら郷に属し、高七〇石余。元禄検地反歩帳では高四八石余、田八町六反余・畑七町七反余。「飛騨国中案内」では免六割三厘三毛余、家数一六(うち百姓一二・門屋一・地借三)。天明八年(一七八八)の村明細帳によれば、田五三石余・二二町一反余、畑一九石余・一〇町五反余とある。「斐太後風土記」では家数一九・人数一一〇余、おもな産物に稗四〇石・布三〇疋・楮一〇貫目・青石などがあり、青石は「高家石と同品にして墓碑、水鉢等に用ふ」とある。


柏原村
かしはらむら

[現在地名]国分寺町柏原

国分こくぶ村の南、新名しんみよう村の西に位置し、西境界にわしノ山(標高三二二メートル)の山稜が続くが、その東斜面の丘陵地に立地。嘉元四年(一三〇六)一〇月一八日の定証起請文(浄土寺文書)に「讃州柏原堂」がみえ、当地所在の鷲峰じゆうぶ寺に当たると考えられる。戦国時代には新名内膳光景の拠った菟上山とかみやま城があったが天正一一年(一五八三)光景が殺され、同一三年に廃城となったらしい(讃陽古城記)。鷲ノ山城には同年入交孫右衛門が拠っていた(土佐国編年記事略)。同城より滝宮たきのみや(現綾南町)へ通じる大道があったという(讃岐国名勝図会)


柏原村
かしはらむら

[現在地名]御所市大字柏原

曾我川西岸に立地。南は原谷はらだに村。元和三年(一六一七)改検地帳、寛永二年(一六二五)天川村弁財天社文書などには丸山まるやま村・出屋敷でやしき村の属邑名がみえる。

天平一〇年(七三八)頃の奴婢見来帳(東大寺文書)に「大倭国葛上郡柏原郷」とあり、「続日本紀」和銅七年(七一四)九月二八日条に「柏原村主」、「姓氏録」左京神別に「柏原連」の名がみえる。慶長郷帳では村高一〇九五・九四石で、新庄藩(桑山一晴)領。天和二年(一六八二)桑山氏改易で幕府領、文政九年(一八二六)高取藩(植村家長)領、廃藩置県に至る。


柏原村
かしばらむら

[現在地名]益田市柏原町

高津川の支流白上しらかみ川に流入する二条にじよう川上流地域で、南は板持いたもち村、西はわな田原たばら村、北は下黒谷しもくろだに村。地名は櫛八玉神・膳手神を祖神として祀っていることに由来するという(石見八重葎)。江戸時代の支配の変遷は持石もちいし村と同じ。古高三四三石余、寛永一四年(一六三七)の検地高四三二石余(万手鑑)。安永九年(一七八〇)浮塵子が発生し、米の収穫が皆無となったので、日貫ひぬい(現石見町)から米を取入れ種子とした(益田市史)


柏原村
かしばらむら

[現在地名]京北町大字柏原

宇津うつ七ヵ村の一。大堰おおい川沿岸の山間集落で、北は周山しゆうざん下熊田しもくまた村、東北は周山村、南は弓槻ゆづき村、西は中地ちゆうじ村。古代は「和名抄」に記す有頭うつ郷に属し、のち宇都うつ(吉富本庄)に含まれる。

慶長七年(一六〇二)幕府領、寛文四年(一六六四)以降園部藩領となる。元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳によると高七九石余。明和七年(一七七〇)には本年貢の免率六割九分というが定免ではない。


柏原村
かしわばらむら

[現在地名]市原市柏原

白塚しらつか村の南東に位置する。応永九年(一四〇二)の富益郷未進年貢注文(覚園寺文書)に「かしわ原名」とみえる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一五二石。正保国絵図でも同高で幕末まで変わらない。元禄一四年(一七〇一)当時は旗本本多領(本多四公日記)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数三一で、旗本山下・筧・林・揖斐・上田領。林分は同氏が文政八年(一八二五)大名となったことに伴い貝淵藩(のち請西藩)領となる。


柏原村
かしわばるむら

[現在地名]宮崎市柏原

跡江あとえ村の西に位置する。宮崎郡に属し、北は諸県もろかた有田ありた村。「かせばる」ともよばれる。中世は柏原別符とよばれ、豊前宇佐宮領の庄園であった。天正年間(一五七三―九二)に通用した日向国五郡分帳には柏原一六町、天正一六年八月四日の日向国知行方目録には柏原一五町二段とあり、高橋元種領となっている。領主の変遷は上別府かみべつぷ村と同じ。寛永一一年(一六三四)の指出(国乗遺聞)では高三二七石余。万治四年(一六六一)延岡藩村高内検高覚では内検高五四〇石。


柏原村
かしわばらむら

[現在地名]逗子市久木ひさぎ

西の久野谷くのや村と東の池子いけご村に挟まれる。長享三年(一四八九)四月二五日の足利政氏加判渋垂小四郎本知行目録写(県史三)に「三浦郡内久野谷郷内猿江村并柏原在家」とある。小田原衆所領役帳に石上弥太郎「廿弐貫四百八十四文 柏原」とある。

延宝三年(一六七五)久野谷村より高一〇〇石を分けて柏原村となり、鎌倉光明こうみよう寺領とされた(風土記稿)。天保初期の家数一六(風土記稿)、慶応三年(一八六七)の家数一五、人数八五、うち男三九・女四六(「三浦郡柏原村宗門人別改帳」県史八)


柏原村
かしわばらむら

[現在地名]不知火町柏原かしわはら

東・南は御領ごりよう村、西は小曾部こそぶ村、北は松山まつやま(現宇土市)に接する。北東より南へ薩摩街道が通じる。村の中央に古閑前こがのまえ、北西に中間なかま、北東に野田のだなどの字地がみえる(郡村誌)元禄国絵図に「御領村之内柏原村」とみえ、近世は松山手永に属した。


柏原村
かしわばらむら

[現在地名]蒲郡市柏原町

上之郷かみのごう村の西にあたる。中世末は上之郷城主鵜殿氏領、天正八年(一五八〇)より池田輝政領、慶長六年(一六〇一)より形原かたのはら松平氏領、同一七年深溝ふこうず形原藩領、元和五年(一六一九)再び形原松平氏領、慶安四年(一六五一)から相給村となって、一部は松平親明領となった。延宝元年(一六七三)幕府領、享保元年(一七一六)に上之郷松平氏領、同三年から再び相給村となって、一部は上之郷松平氏領のままであったが、一部が竹谷たけのや松平氏の知行地となって明治に至る。


柏原村
かしわばらむら

[現在地名]北会津村柏原

阿賀川扇状地上にあり、北東は下米塚しもよねづか村、西は西麻生にしあそう村。絶えず流路が変わり、河原が形成され、村名もこの河原に柏の木がはえていたことに由来すると思われる。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高二八四石余。橋爪組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高三八七石余。化政期の家数二九(新編会津風土記)


柏原村
かしわばらむら

[現在地名]伊野町柳瀬やなのせ

上八川かみやかわ川が仁淀によど川に合流する付近、柳瀬村の北西に位置し、同村の枝郷であった。天正一七年(一五八九)の下分七名地検帳には柳瀬村に「カシワ原」がみえ、「テキ地」(出来地)の地名もみえる。吉良親実の所領であった。慶長二年(一五九七)の下分地検帳では百姓名および散田などになっている。


柏原村
かしわばるむら

[現在地名]清川村砂田すなだ

長迫ながさこ村の北西、緒方おがた川南岸にある。「豊後国志」に柏原とみえる。地元では村名を「かしょばる」とよぶ。旧高旧領取調帳では六三石余。安永七年(一七七八)には牧組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の柏原村の言及

【狭山[市]】より

…埼玉県南部の市。北西流する入間(いるま)川をはさんで武蔵野台地と入間台地にまたがる。人口16万2240(1995)。1954年入間川町と入間,堀兼,奥富,柏原,水富の5村が合体,市制。中心の入間川は鎌倉街道が入間川を渡る地点の集落として起こり,江戸時代は2・7の六斎市が立った。逃水((にげみず))という地名や堀兼井,七曲井の遺構などに,水の乏しい武蔵野台地の特性がよく表れている。1895年に,川越鉄道(現,西武新宿線)が開通した。…

※「柏原村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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