日本歴史地名大系 「柏原村」の解説
柏原村
かしわばるむら
正応元年(一二八八)八月一一日の行蓮譲状案(斑目文書)に「薩摩国答院柏原の内、河口の野并其内のあらひ新田弥源次入道作等」とみえ、行蓮(渋谷重松)に代わり異国警固役を勤める舎弟斑目兵衛二郎入道聖蓮に譲り渡すとある。「河口の野」「あらひ新田」は柏原北部の
柏原村
かしわばらむら
- 埼玉県:狭山市
- 柏原村
柏原新田の西、北東流する
近世には高麗郡
柏原村
かしわらむら
- 大阪府:柏原市
- 柏原村
志紀郡中央部東端に位置し、宝永元年(一七〇四)の大和川付替え以前は左岸、付替え後は右岸となる。また大和川の分流である平野川(了意川)が村の北部を西流、付替え後は新大和川の
柏原村
かしわばるむら
北に
「中川氏年譜」によれば、文禄二年(一五九三)閏九月一三日「大友家の老臣たりし田原近江入道紹忍、太閤より、柏原郷松本邑合せて、二千九百十三石四斗食邑を下さる。宗像掃部、葎原郷にて千八百五十石余同断。御当家の御幕下に仰せ付けられ、御幟等御預け置かる」とある。一一月一九日豊臣秀吉は中川秀成に豊後国直入郡二万九千三八石・同大野郡内三万六千九六二石、都合六万六千石を宛行った(中川史料集)。この年の打入の節、小出(垣田氏)対馬守の子孫である新太郎が柏原郷橘木村千石庄屋(大庄屋)を仰せ付けられ柏原郷を支配した(「勤仕歴代調書」垣田家文書)。
柏原村
かしわばらむら
現山東町の東部に位置し、東・南・西を山地に囲まれた平地。中世柏原庄が成立。古代の東山道に沿い、近世には中山道の宿駅として栄えた。西から
柏原村
かしわばらむら
- 長野県:茅野市
- 柏原村
嘉禎三年(一二三七)の奥書をもつ「祝詞段」に「柏原ニ子ノ神」とあるのが初見。標高一四二〇メートルの白樺湖岸、特に
柏原村
かしわばらむら
現信濃町の中央部。東は
古昔は
柏原村
かしわばらむら
〔久保田〕
烏川扇状地の扇頭部に位置しており、柏原村の内原に元禄一一年に開発。承応三年矢原堰の成立によって、これまで矢原村の用いていた矢原沢の水に余裕ができ開発が許可されたものであろう。元禄一一年の検地帳によれば、田三町九段余、畑二町五段余、屋敷一町一段余、計七町六段余を新開。
柏原村
かしはらむら
柏原村
かしわばらむら
- 長野県:飯田市
- 柏原村
現飯田市北東部、
中世は知久郷に属し、天文一〇年(一五四一)正月の諏訪社上社の神使御頭之日記によれば、柏原の知久氏は内県の神使御頭の宮付(頭役)を勤めている。
柏原は水利・日照ともに恵まれ、盆地の中央部は相当の地力もあり、比較的に経済条件に恵まれた地域で、柏原の中心地
柏原村
かしはらむら
柏原村
かしはらむら
柏原村
かしわばらむら
柏原村
かしわらむら
- 三重県:名張市
- 柏原村
江戸時代は元禄四年(一六九一)古検を改め、本高三五八・三四一石、平高五一六・五九石。寛延(一七四八―五一)頃の戸数七四、人口三〇九、馬一、牛一八。
柏原村
かせばらむら
- 京都府:亀岡市
- 柏原村
東は
柏原村
かしわばらむら
- 青森県:五所川原市
- 柏原村
岩木川下流右岸に位置し、東は
寛文四年(一六六四)の高辻帳に二二七・七四六石とある。貞享四年(一六八七)の検地帳は喰川村支村柏原村として田方二三町三反一畝一五歩、屋敷を除いた畑方二町九反五畝四歩、田畑屋敷合せて二八町八反三畝一六歩、村高二二七・七四六石と記す。「平山日記」によると寛文年間から開発の五所川原村に続いて開かれた。「五所川原町誌」は、貞享四年川端領大曲が喰川村支村柏原村となったとする。元禄三年(一六九〇)には広田組に属し、村位は下で、家数一五、うち庄屋一・百姓八・水呑六であった(平山日記)。
柏原村
かしはらむら
柏原村
かせばらむら
- 和歌山県:橋本市
- 柏原村
紀ノ川の支流
柏原村
かしはらむら
柏原村
かしはらむら
柏原村
かしはらむら
柏原村
かしはらむら
- 奈良県:御所市
- 柏原村
曾我川西岸に立地。南は
天平一〇年(七三八)頃の奴婢見来帳(東大寺文書)に「大倭国葛上郡柏原郷」とあり、「続日本紀」和銅七年(七一四)九月二八日条に「柏原村主」、「姓氏録」左京神別に「柏原連」の名がみえる。慶長郷帳では村高一〇九五・九四石で、新庄藩(桑山一晴)領。天和二年(一六八二)桑山氏改易で幕府領、文政九年(一八二六)高取藩(植村家長)領、廃藩置県に至る。
柏原村
かしばらむら
- 島根県:益田市
- 柏原村
高津川の支流
柏原村
かしばらむら
柏原村
かしわばらむら
柏原村
かしわばるむら
柏原村
かしわばらむら
柏原村
かしわばらむら
柏原村
かしわばらむら
- 愛知県:蒲郡市
- 柏原村
柏原村
かしわばらむら
柏原村
かしわばらむら
柏原村
かしわばるむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報