宮戸村
みやどむら
[現在地名]本庄市宮戸など
榛沢郡に所属。利根川南岸の自然堤防上に位置し、西は一本木村・牧西村、北は利根川対岸の上野国佐位郡島村(現群馬県境町)。滝瀬村に飛地がある。現在は同川の河川改修などによって南岸でも境町に接し、集落は南部に散在する。集落の北側に接して旧堤防が残存しており、北部の畑地はかつて利根川・烏川の河道であったことをうかがわせる。天正一九年(一五九一)八月の宮戸村検地帳写(金井家文書)によると畑方のみで二九町九反余、屋敷一千六六三坪、多数の分付百姓を記載し、分付主は一一名で手作地四三・八パーセント、主抱一〇・三パーセント、分付地四五・九パーセントである。
宮戸村
みやどむら
[現在地名]朝霞市宮戸・宮戸一―四丁目・朝志ヶ丘四丁目
浜崎村の北にあり、北は新河岸川を挟んで内間木村と宗岡村(現志木市)。同川沿いに水田が広がり、台地は畑と雑木林。新座郡野方領に属した(風土記稿)。田園簿では田九〇石余・畑一〇九石余、旗本長坂領。以後幕末まで同領。享保期(一七一六―三六)に南西宮戸原の開発が進められ、同一三年には開発のために玉川分水(野火止用水)の用水堀浚普請願が当村・膝折村・溝沼村・浜崎村・田島村から出されている(「宮戸原新田玉川分水用水堀書物」牛山家文書)。
宮戸村
みやどむら
[現在地名]御所市大字宮戸
森脇村の東南、葛城川と水越川に挟まれた所に立地。高市郡曾我村(現橿原市)から西南方に走る葛上道(筋違道)は蛇穴村を西南に斜向し、当村を貫通する。当村の一言主神社の宮座は、同社の祭礼用の紫御幣作りの伝統的神事に奉仕している(→一言主神社)。「日本書紀」景行天皇三七年一〇月一三日条に「是に、日本武尊、葛城の人宮戸彦を遣して弟彦公を奐す」とある。
宮戸村
みやどむら
[現在地名]竹田市次倉
瀬ノ口川沿いの長迫村から南東に登った山中にあり、北東は辻原村。宮砥とも記し、良質の砥石がとれたので村名となったという。正保郷帳では次倉郷に属し、田方四七石余・畑方五一石余。弘化物成帳では次倉組のうち、村位は中、免六ツ七分、田四〇石余(四町一反余)・畑八四石余(一五町二反余)・屋敷四石余(四反余)で、開田はほとんどなく、開畑二石余(四町五反余)がある。
宮戸村
みやどむら
[現在地名]谷和原村宮戸
上小目村の北、小貝川東岸に位置。「寛文朱印留」によれば古河藩主の叔父土井利房の領地であったが、享保三年(一七一八)土浦藩土屋氏領(谷原上郷組)となり廃藩置県に及ぶ。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 