宮永村(読み)みやながむら

日本歴史地名大系 「宮永村」の解説

宮永村
みやながむら

[現在地名]中津市上宮永かみみやなが下宮永しもみやなが

中津城より南へ約半里、西は山国やまくに川、北は金谷かなや村・萱津かやづ村。上宮永には宮時みやとき庄の名主久恒氏が住しており、史料に散見する久恒ひさつね名は当地にあったか。承久二年(一二二〇)七月日の宇佐公仲下文(到津文書)によれば、宇佐宮宿直番闕夜の大家おおえ郷土民百姓中に「久恒」がみえる。嘉禎四年(一二三八)六月二三日大家郷内久恒名地頭職が藤原明綱に安堵されている(「六波羅施行状」久恒文書)。観応二年(一三五一)正月日の久恒範房軍忠状写(同文書)によれば、河依(久恒)小太郎範房が長副ながそえ城を攻略する軍に加わっている。永正年間(一五〇四―二一)頃の永弘文書に頻出する久恒弥四郎清郷は宮永弥四郎とも表現されている。


宮永村
みやながむら

[現在地名]若宮町宮永

稲光いなみつ村の北西犬鳴いぬなき支流黒丸くろまる川左岸に位置し、北西には雁城かりじよう(三三三メートル)がそびえる。

宗像社家文書惣目録(宗二)によると、観応二年(一三五一)一一月二九日、足利尊氏の袖判が加えられた一色道猷御教書により宮永・片隈かたくま田地三町が宗像氏家に宛行われ、貞治二年(一三六三)六月八日、足利義詮の下文により安堵されている。貞治二年(三年の誤りか)一〇月二五日、宗像氏家はこの田地を宗像社に寄進し、応安四年(一三七一)七月二六日には当時の宗像大宮司氏俊から宗像弥松(氏頼)に「鞍手郡宮永・片隈」が譲られている。至徳四年(一三八七)四月三日、九州探題今川了俊は「宮永村」などを宗像大宮司に安堵している(「今川了俊書下」宗像大社所蔵文書/南北朝遺文(九州編)六、以下中世史料は断りのない限り同文書)。正平二十三年宗像宮年中行事(神道神四九)には七五社の一つとして「宮永若宮社」がみえ、神事も記載されている。


宮永村
みやながむら

[現在地名]松任市宮永町・旭丘あさひがおか三丁目

宮永市みやながいち村の北、中村なかむら用水の末流倉部くらべ川、その支流ののみぐち川・柳橋やなぎばし川、柳橋川の分流雁堀がんぼり川が流れる。慶長一二年(一六〇七)六月の中村用水普請人夫ニ付達書(松任町史)に「みやなか村」とみえる。正保郷帳では高一千八七七石余、田方一二五町一反・畑方二〇町八反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高一千九九七石、免四ツ七歩、小物成は川役二〇匁(ほか二〇匁退転)であった(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数三三・百姓数七三(高免付給人帳)。天保四年(一八三三)の石川郡惣村数書上(大鋸文書)でも高・免は同じ。


宮永村
みやながむら

[現在地名]柳川市上宮永町かみみやながまち下宮永町しもみやながまち

弥四郎やしろう村の東にあり、柳川城下御家中の南に位置する。山門やまと郡に属し、柳川藩領。文禄四年(一五九五)の知行方目録には記載がなく、元和七年(一六二一)の郡村帳に宮永村とあり、玄蕃高二千三九六石余・新田高一七〇石余、小物成は葭野年貢米七斗余。寛延三年(一七五〇)の御開惣畝土免御物成御目録(伝習館文庫)によれば、立花吉治郎・立花四平・吉田舎人・道印の拝領開があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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