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東京都台東区南東部の地名。柳橋1~2丁目からなる。1698年(元禄11)神田川が隅田川に流入する川口に橋が架けられ,川口出口の橋,川口橋と呼ばれていたが,西側に柳を植えた柳原の火除(ひよけ)土手ができてから柳橋と称するようになったという。一帯は両国広小路に隣接する交通の要地として栄え,柳橋の船宿からは吉原へ通う猪牙(ちよき)舟が出船し,また隅田川の涼み舟も往来した。神田川の両岸には料理茶屋が多く,万屋八郎兵衛(万八楼),亀屋清右衛門(亀清),梅川忠兵衛などの店は貸座敷も兼ねており,江戸文人の集会の場でもあった。芸妓も多く,明治以後も隆盛をみせた。成島柳北の戯作《柳橋新誌(りゆうきようしんし)》の舞台にもなっている。総武本線浅草橋駅があり,駅から北の蔵前にいたる道筋には人形問屋が多い。
執筆者:吉原 健一郎
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東京都台東区(たいとうく)南東端の地区。地名は、神田川(かんだがわ)が隅田(すみだ)川へ流入する落口(おちぐち)に架けられた柳橋に由来する。現在地名は神田川北岸の台東区のみに残るが、対岸の中央区には明治初年以降元柳町の地名があった。慶長(けいちょう)年間(1596~1615)から船遊びのための船宿が発生し、待合茶屋などの粋(いき)な遊び場、花街へと発展、明治、大正時代へと受け継がれた。関東大震災にあったが復興し、赤坂と並ぶ料亭街として繁栄したが、1960年ごろからの堤防嵩上げなどによる景観の変化もあり、料亭街は消滅した。江戸通り沿いに玩具(がんぐ)、文具などの問屋街が形成されている。
[菊池万雄]
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…これには弾圧もあったが,江戸末期になると各地で芸者遊びが盛んとなり,辰巳(たつみ)芸者,羽織芸者とも呼ばれた江戸の深川芸者が意気と俠気(きようき)とを認められたのを始め,遊郭に代わる新興歓楽地として活況を呈した。明治以後の東京では深川にかわって柳橋が盛んになり,やがて政・官・財界をあげて,新橋を中心として〈待合政治〉をくり広げたため花柳界は大発展した。芸者屋も組合を作り温習会を催して売名と技芸の向上をはかった結果,国際的に〈ゲイシャ〉の名を広めた。…
…3編は文部省から発行を差しとめられ,柳北と依田学海の序だけが伝えられて本文は散逸した。初編は,幕末の新興花街柳橋の風俗を縦横に活写し,そこに風流の真諦を求めようとする青年儒者の気概をこめる。2編は,短編小説ふうの挿話をつらねた構成で,維新後の柳橋を舞台に,薩長の政府高官の無風流を揶揄(やゆ)し,あわせて文明開化の卑俗浅薄な側面を辛辣に風刺しているが,その背後に流れているのは,中年を迎えた遊人の悲傷である。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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