日本歴史地名大系 「宮田庄」の解説
宮田庄
みやだのしよう
篠山盆地の北西部、篠山川支流の宮田川流域一帯に比定される近衛家領庄園。史料上庄内に
〔近衛家領庄園〕
成立の経緯は不明であるが、建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家所領目録(近衛家文書)には「庄務本所進退所々」として「高陽院領内」の注記とともに「宮田庄 長範」とみえ、また「所領濫觴者、委見延久二年十月六日進官目録、建長五年十月廿一日注出之」とあり、当庄が延久庄園整理令によって提出された目録に書上げられ、高陽院(藤原忠実女泰子)領として近衛家に伝えられたことが知られる。一二世紀初めの摂関家年中行事における所課を書上げた「執政所抄」によれば、当庄は元日の四方拝供御座の薦三〇枚を負担している。天承二年(一一三二)八月五日の東寺政所下文(東寺文書)および同日の関白藤原忠通家御教書(同文書)により宮田庄寄人の隣接する
元亨四年(一三二四)四月の造大神宮料丹波国催神部成行重申状(近衛家文書)によれば、田数二二二町八段一六〇歩という規模の大きい庄園で、「後法興院記」応仁二年(一四六八)四月一〇日条には「家門異他旧領廿五ケ所内忠仁公以来別相伝地也」と記されている。当庄は近衛家の重要庄園の一つとして、進藤長範の一族など近衛家に仕える中下級貴族が預所となり、本所近衛家の直接指揮の下で、在地の土豪を下司・公文に任じ、村々に代官を置いて庄園支配を行っていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報