西田井村(読み)にしたいむら

日本歴史地名大系 「西田井村」の解説

西田井村
にしたいむら

鎌倉期―戦国期にみえる京都東寺領大山おおやま庄内の村名。旧大山村の南西、明野あけの東河地とうこうち大山下おおやましもの一帯に比定される。大山庄域は本来は篠山川支流大山川流域を庄域として成立したが、この地区はのちに大山庄域に組込まれたため、例外的に宮田みやだ川流域に属し、部分的に条里地割も残る。村名の初見は仁治二年(一二四一)五月の大山庄領家年貢請文案(東寺文書、以下断りのない限り同文書)であるが、大山庄域に繰込まれたのは康和四年(一一〇二)で、同年七月一五日の丹波国大山庄立券坪付によれば、庄域の東が拡大され、根前里・見坂里・黒俵里の三ヵ里が庄域化された。この三ヵ里が比定されるのが明野以下の地区で、西田井村はすでにこの頃にはその原型が成立していた。この地域は発達した段丘地形のため、灌漑用水は上流の宮田庄域を通過して供給されねばならなかったが、徳治三年(一三〇八)五月二八日の大山庄用水契状案によれば、すでに承安三年(一一七三)に宮田庄から引水する替りに、草木を利用させるという契約が結ばれていたことが知られる。

大山庄地頭代正仏が領家年貢を請負った仁治二年五月の大山庄領家年貢請文案には「西田井村荒廃分所当者、打開者、可致沙汰」とあり、この時すでに荒廃していた。東寺と地頭中沢氏との下地中分の結果作成された永仁三年(一二九五)三月八日の中沢基員分田坪付注文および雑掌祐厳等連署分田坪付注文案によって、池尻いけじり村内の一井いちい谷・賀茂茎かもがくき谷とともに、西田井村内田八町七段五代・畠二町、計田二五町・畠五町が東寺方となった。この時の四至および徳治三年の大山庄用水差図(東寺文書、黒川古文化研究所蔵集古群類)からは、段丘上に広がる西田井村が「縄手」などで区切られて分割され、その北東寄りが東寺方となったことが知られる。


西田井村
にしだいむら

[現在地名]真岡市西田井

小貝こかい川右岸、八溝やみぞ山地南部の低台地が五行ごぎよう川左岸の平地に移行するゆるやかな斜面にあり、田が多い。もと田井だい郷で、かつては東田井村(現芳賀郡益子町)一村で、台村と称していたが、のち東台・西台となり、さらに台を田井と表記するようになったと伝える。慶長九年(一六〇四)常陸麻生藩領、同一八年一部を一族の旗本新庄直房に分知し、分知分は幕末まで続く。麻生藩領分は延宝三年(一六七五)幕府領、同五年旗本内藤知行、元禄四年(一六九一)幕府領、同五年遠藤領、同一一年旗本松平知行となる。


西田井村
にしだいむら

[現在地名]西脇市西田町にしだちよう

西仙寺さいせんじ(村)の北東に位置し、村の西を杉原すぎはら川が流れる。慶長国絵図には西田村と記載される。慶長年間(一五九六―一六一五)検地帳(藤井家文書)では高二九二石余。寛永一六年(一六三九)幕府領(兵庫県史)、宝暦一二年(一七六二)より幕末まで下総古河藩領(「寛政重修諸家譜」・旧高旧領取調帳)正保郷帳では田方三三〇石余・畑方八石余。延宝五年(一六七七)の検地帳(藤井家文書)によれば、竿先の出目一五石余、位違の出目四二石余、高三五一石余。小物成は村中薪取場山手銀一四匁・百姓山山手銀二匁・鉄砲役銀三匁・川役銀三匁。


西田井村
にしたいむら

[現在地名]和歌山市西田井

名草なくさ郡に属し、小豆島あずしま村の東にある。村域南部をろつ用水の一流(現鴨居川)が南西に流れ、北方弘西ひろにし村南部を他の一流が西流する。「続風土記」は、紀ノ川洪水で水没して後、東方の田井庄より開発されたため西田井の称となったという。あるいは中世田井庄の内と考えられるので、同庄の西部に位置するための呼称とも思われる。慶長検地高目録によると高六一九石余、江戸時代を通じて開発が進み、天保郷帳では一〇〇石余の増加がみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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