日本歴史地名大系 「宮竹村」の解説 宮竹村みやたけむら 石川県:能美郡辰口町宮竹村[現在地名]辰口町宮竹・旭台(あさひだい)長滝(ながたき)村の北東、手取川下流南岸に位置し、西は三ッ口(みつくち)村。宮武とも記した。長滝村境にある滝を宮滝と称し、これが変化して地名となったとされる(加賀志徴)。「尊卑分脈」には加賀斎藤氏系の武士団林氏の庶流倉光成忠に「宮武二郎」との注記がある。成忠は鎌倉時代中期頃当地に土着、開発領主となり宮武氏を名乗ったものか。年未詳一二月一九日付の蓮如書状写(粟津家記録)によると、津波倉(つばくら)(現小松市)本蓮(ほんれん)寺の門徒が種々の悪行(長享の一揆の際か)を働き、蓮如はその停止を命じているが、同門徒のなかでもとくに「宮竹方」が名指しされている。天文年間(一五三二―五五)頃石川郡や河北(かほく)郡の村々と併せて六ヵ村という単位でよばれ、幕府料所であった。同七年九月、料所代官である幕府政所執事伊勢貞孝は、代官任命について白山長吏の同意を得られず、代わって京都相国(しようこく)寺の興禅軒と契約を結ぶこととした。 宮竹村みやたけむら 静岡県:浜松市旧長上郡・豊田郡地区宮竹村[現在地名]浜松市宮竹町大蒲(おおかば)村の北に位置し、南部を東海道が通る。中世は蒲(かば)御厨のうち。明徳二年(一三九一)頃の蒲御厨年貢公事銭注文写(東大寺文書)に宮武村とみえ、定麦二石八斗余・定豆二石四斗余、定役二貫六五八文。応永二九年(一四二二)閏一〇月一〇日の蒲御厨収納帳(東大寺文書)の先納分帳に「弐百廿五文過上交分共下定、宮武」とみえる。享徳元年(一四五二)一二月三〇日の蒲御厨年貢進未算用状案(同文書)では皆済村。 宮竹村みやたけむら 静岡県:静岡市旧有渡郡・庵原郡地区宮竹村[現在地名]静岡市宮竹一―二丁目・高松(たかまつ)敷地(しきじ)村の東に位置したとみられる。高松村の分村との説があり(駿河記)、同村・敷地村とともに高松三ヶ村と称された。戦国期には宮武と記される。天文八年(一五三九)一二月一四日の今川義元朱印状(村岡文書)には、駿府浅間社(静岡浅間神社)の神役料を出さない所々に「宮武」がみえ、神官村岡氏は神役料を催促することを許されている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by