日本歴史地名大系 「宮迫村」の解説 宮迫村みやざこむら 広島県:山県郡大朝町宮迫村[現在地名]大朝町宮迫上平(あげびら)山(八八〇メートル)と唐代(からしろ)山(八一四メートル)の間の時雨三坂峠(しぐれみさかたお)(亀谷峠)を通る石見銀山路に沿って集落が開ける。南東は岩戸(いわど)、南は新庄(しんじよう)、西は大朝の諸村に接する。元和五年(一六一九)以後に岩戸村より分村し、広島藩御覚書帖に村名がみえる。慶長六年(一六〇一)の検地で当地分の高は三八四石とされ、新開高も加えられた。享保一四年(一七二九)の地詰で三八七・九九七石に決定。 宮迫村みやざこむら 大分県:大野郡朝地町宮迫村[現在地名]朝地町宮生(みやお) 宮生浦(みやおうら)・宮生中央(みやおちゆうおう)南東流する平井(ひらい)川西岸、和田(わだ)村の南西にある。建久二年(一一九一)三月一一日の深山八幡社神領坪付境注文案(上津八幡社文書)に宮迫とみえる。弘安一一年(一二八八)四月二五日の詫磨寂尊譲状案(詫摩文書)にみえる宮迫名の遺称地。正保郷帳では宮迫村は大方(おおがた)郷に属し、田高一九三石余・畑高一七六石余、茅山有と注記される。江戸時代後期の村明細帳(大久保家文書)によれば高四三三石余、田二二町八反余・畑四八町五反余・屋敷一町三反余で、定免八ツの下の村。 宮迫村みやばさまむら 愛知県:幡豆郡吉良町宮迫村[現在地名]吉良町宮迫幡豆山地に開けた山村。矢崎(やさき)川沿いに集落が開けている。村の東西に走る道は、西尾から深溝(ふこうず)(現額田郡幸田町)に至る街道である。円融寺観世音菩薩縁起の断片に「享保第五庚子宮廻邨」と記され、現在神明社内殿に、木像七体・神鏡七枚が所蔵されている。宮狭とも記すが、明治維新後宮迫に統一(幡豆郡横須賀村誌)。慶長五年(一六〇〇)吉良義定領、元禄一六年(一七〇三)松平備前守領。天明八年(一七八八)の年貢免状(吉良町有)によると、村高三二三石余で田畑の高の等しい村。田の免四ツ二分、山縁田・干地畑など免を別にする。田方・畑の汐入引・荒地引など六七石余を数える。小物成に山下草役がある。 宮迫村みやざこむら 大分県:大野郡大野町宮迫村[現在地名]大野町宮迫 宮迫・浅草東(あさくさひがし)・浅草西(あさくさにし)三木(みつぎ)村の北西、茜(あかね)川北岸にある。正保郷帳に村名がみえ、田高二一〇石余・畑高一〇四石余、藤北(ふじきた)郷に属する。旧高旧領取調帳では高二三三石余。安永七年(一七七八)には藤北組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。 宮迫村みやさこむら 大分県:大野郡清川村宮迫村[現在地名]清川村宇田枝(うたえだ) 宮迫宇田枝村の南東にあり、東は中野(なかの)村。正保郷帳に村名がみえ、田高六七石余・畑高五九石余、宇田枝郷に属した。旧高旧領取調帳では高一三二石余。安永七年(一七七八)には宇田枝組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by