寄居村(読み)よりいむら

日本歴史地名大系 「寄居村」の解説

寄居村
よりいむら

[現在地名]寄居町寄居

現寄居町の中央部西寄り、南へ弧を描くように東流する荒川左岸に位置する。当村は元禄(一六八八―一七〇四)以前に、古寄居こよりい村・新寄居村・寄居新組よりいしんぐみ村の三ヵ村に分村するが、互いに入組んでいるため境域は判然としない(風土記稿)。西は末野すえの村、北は桜沢さくらざわ村、南は荒川を境に男衾おぶすま鉢形はちがた町。東部を南北に川越への道(中山道の脇往還)が通り、荒川にしもノ渡がある。これと交差して東西に秩父往還が通り、馬継場が置かれた。秩父、八幡山はちまんやま(現児玉町)、深谷・熊谷などへ継立を行っており(同書)、寄居町・寄居宿とも称された。天正二〇年(一五九二)三月一二日の日下部定好寺領書立(極楽寺文書)に「寄居之郷」とある。寄居とは中世の城郭の一形態で、本城に付随する部分のことと考えられており、対岸の鉢形城との関係から村名になったものとみられる。同一八年の徳川家康関東入国後、その家臣日下部定好・成瀬正一の支配下にあったが、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の合戦後に両名が山城伏見城の留守居奉行として転出したため(寛政重修諸家譜)幕府領として代官頭伊奈氏の支配下に置かれた。

田園簿によると高四八八石余はすべて畑で幕府領。明暦元年(一六五五)検地により村が二分され、古寄居村と新寄居村が成立。同年の古寄居村は高三一一石余(田三町余・畑四八町三反余)で幕府領(「古寄居村検地帳」岩田家文書)、新寄居村は高二八六石余(田三町二反余・畑五七町六反余)で同領(「新寄居村検地帳」同文書)、ほかに正龍しようりゆう寺領二〇石と聖天しようでん(現極楽寺)領二〇石がある。寛文一〇年(一六七〇)新・古両寄居村の検地帳を帳分けし、幕府領寄居新組村を分出。


寄居村
よりいむら

[現在地名]那須町寄居

南流する奈良なら川上流域に散在する黒羽藩領の諸村で、同藩による「創垂可継」封域郷村誌巻一によれば横岡よこおか村の枝村として扱われ、同巻二では北接する境明神さかいのみようじん村と併せて、寄居村町組として編成されていた。北から中重なかしげ山中やまなか大久保おおくぼ・寄居(町並)沢口さわぐち平田へいだ脇沢わきざわの諸村で、中心集落は寄居町並であった。寄居村の呼称は狭義の場合、この寄居町並のことをさしたが、広義では寄居村町組を一括する村名としても用いられた。奈良川沿いに奥州街道が南北に走り、諸集落は同川や支流、あるいは奥州街道に沿って点在した。慶安・元禄・天保の各郷帳では村名を欠くが、改革組合村では高五三八石余、家数二〇。旧高旧領取調帳では高一千八三二石余。前掲封域郷村誌巻三によれば寄居村町組の合計で高六一九石余、反別は田方四二町三反余・畑方四八町七反余・町屋敷四町四反余。同巻二では合せて家数九〇(境明神村を含む)。寛文九年(一六六九)の拝借馬金等につき口上書(松本稔文書)には附子村として寄居・沢口・脇沢・大久保などの村名がみえ、街道問屋が陸奥白河藩から借受けた馬金の返済を附子村として迫られたため、問屋源左衛門の家宅などを附子村々に引渡すことなどを訴願している。


寄居村
よりいむら

[現在地名]栃木市寄居町

大宮おおみや村の東に位置し、おもい川右岸の沖積地に広がる。東は村、北は国府こう村。平六坪へいろくつぼ小二反こにたん壱丁田いつちようだなど条里を思わせる小字名があり、北部の字長原ながはらの東から下野国府跡と一体と思われる住居跡・井戸跡などが発見されている。慶長一四年(一六〇九)までは皆川広照領(延享元年「皆川歴代記」皆川又太郎文書)。のち榎本藩領・武蔵岩槻藩領であったとみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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