奥州街道(読み)オウシュウカイドウ

デジタル大辞泉 「奥州街道」の意味・読み・例文・類語

おうしゅう‐かいどう〔アウシウカイダウ〕【奥州街道】

江戸時代五街道の一。江戸千住せんじゅから白河に至る街道。その延長の陸奥むつ三厩みんまやまでを含めていうこともある。奥州道中

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精選版 日本国語大辞典 「奥州街道」の意味・読み・例文・類語

おうしゅう‐かいどうアウシウカイダウ【奥州街道】

  1. 江戸時代の五街道の一つ。江戸千住から陸奥国(青森県)三厩(みんまや)に至る街道。厳密には江戸から宇都宮までの日光道中および白河から三厩までの仙台・松前道を除く、下野国白沢から氏家、喜連川、佐久山、太田原、鍋掛、越堀、蘆野、白坂を経て白河に至る一〇宿の道中をいう。東海道に連なる太平洋側の縦貫路で、幕末には蝦夷地の開拓や、日露関係の急迫による箱館・松前への往来で重要性を増した。奥州道中。

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日本歴史地名大系 「奥州街道」の解説

奥州街道
おうしゆうかいどう

江戸幕府の道中奉行が支配する五街道の一つで、公称は奥州道中である。一般に千住せんじゆ(現東京都足立区)から三厩みんまや(現青森県東津軽郡三厩村)に至る道をいうが、厳密には千住から宇都宮うつのみや(現栃木県宇都宮市)までは日光道中に属し、これが奥州道中を兼ね、次の白沢しらさわ(現同県河内郡河内町)より白河しらかわ(現福島県白河市)までが道中奉行の支配となる。白河以北はその延長路とみて奥州道中と称したものだが、管轄は勘定奉行であり、人馬賃銭などを定めるほかは、各藩にその支配が任されていた。仙台藩の場合も各宿駅は直接的には大肝入および検断の支配下にあったようである。したがって白河以北については公式の名称がなく、北へ向かって仙台・盛岡道(「諸方早見道中記」宮城県図書館蔵)のほか、仙台道中・松前まつまえ道などがあり、江戸に向かっては宇都宮海道(「奥州道程記」内閣文庫蔵)などの呼称がある。仙台藩では仙台以南を江戸道中(諸方早見道中記)、同以北を奥道中(「奥道中歌」宮城県図書館蔵)と称したようである。明治期には福島県境より岩手県境までを陸羽街道とした。仙台藩における宮城県内の宿駅は、江戸道中として仙台城下北目きため宿より、長町ながまち(現仙台市)中田なかだ(現同上)増田ますだ(現名取市)―岩沼―槻木つきのき(現柴田郡柴田町)舟迫ふなばさま(現同上)大河原おおがわら(現同郡大河原町)かな(現同上)みや(現刈田郡蔵王町)白石しろいし斎川さいかわ(現白石市)越河こすごう(現同上)の一二ヵ宿。奥道中は北目宿より七北田ななきた(現泉市)富谷新とみやしん(現黒川郡富谷町)吉岡よしおか(現同郡大和町)三本木さんぼんぎ(現志田郡三本木町)―古川―荒谷あらや(現古川市)高清水たかしみず(現栗原郡高清水町)築館つきだて(現同郡築館町)宮野みやの(現同上)沢辺さわべ(現同郡金成町)金成かんなり有壁ありかべ(現同上)の一二ヵ宿。


奥州街道
おうしゆうかいどう

江戸から宇都宮を経て奥州白河へ至る街道。古代の東山道、中世の鎌倉街道などと大筋は同一のルートであったと思われる。近世当初は江戸までをよんだと思われるが、元和三年(一六一七)の家康日光廟造営後は、江戸―宇都宮―日光の道が日光街道として重視されたため、宇都宮以北が奥州街道とよばれ、五街道の一つとされた。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦後も、宇都宮は奥州諸大名ならびに下野北東部の那須氏系の旧族大名への押えとして、「関東喉首の」要地といわれ、城地としても街道の要地としてもきわめて重要な役割をもった。同七年一月一八日幕府は「宇都宮町中」に対し、「公儀之伝馬、当領主定役」の履行を条件として、地子免許を与えた(「地子免許状」植木秀三文書)。慶長六年から宿駅が開設され始めた東海道・中山道に次いで、幕府により奥州街道の整備が始められたことを物語っている。白沢しらさわ宿(現河内郡河内町)は宇都宮氏の旧臣宇梶(宇加地)氏の土着により、同一四年に町割されたと伝える。

元和五年本多正純が宇都宮藩主となり、宇都宮は城下町としても宿としても大きく改変された。それまでの奥州街道は、宇都宮大明神(現二荒山神社)の門前町の南にある城の南端をかすめて川に並行して北東に通っており、小田橋こたはし(古多橋)に駅家があり、そこから下河原しもがわら・中河原・上河原の各町が宿場として並んでいた。本多氏による新しい町立てでは、拡大された城の西側を江戸から新しい街道が南から北へ通り、城下北西端で日光街道を北西に分岐し、東へ曲って城と宇都宮大明神の間に奥州街道を通した。北へ折れ田川を渡ると城下のはずれ馬喰ばくろう町である。宿村大概帳によると、ここから道筋は二里二八町で白沢宿、その先に鬼怒川の渡場がある。


奥州街道
おうしゆうかいどう

江戸幕府の道中奉行の支配下にある五街道の一つで、公称は奥州道中。一般には武蔵千住せんじゆ(現東京都足立区)から陸奥三厩みんまや(現青森県津軽郡三厩村)に至る街道をいうが、厳密には千住から下野宇都宮うつのみや(現栃木県宇都宮市)までは日光街道に属し、これが奥州道中を兼ね、次の同白沢しらさわ(現同県河内郡河内町)より陸奥白河しらかわ(現福島県白河市)までが道中奉行の支配となる。白河以北はその延長路とみなされて奥州道中と称され、勘定奉行の支配下にあったが、人馬賃銭などを定めるほかは、各藩にその支配が任されていた。呼称については、仙台城下以北を仙台・盛岡道(「諸方早見道中記」宮城県図書館蔵)、奥道中(「奥道中歌」同館蔵)、盛岡藩領の鬼柳おにやなぎから陸奥馬門まかど(現青森県上北郡野辺地町)までは大道筋と記されたりしており(慶安二年「奥州之内南部領海陸道規帳」県立図書館蔵)、ほかに仙台道中・盛岡道中・松前道などの呼称がある。

盛岡・仙台両藩の場合、各宿駅は肝入・検断の支配下にあったらしい。岩手県内の宿駅は、仙台藩領有壁ありかべ(現宮城県栗原郡金成町)の北方の一関から始まり、山目やまのめ(現一関市)前沢まえさわ(現胆沢郡前沢町)―水沢―金ヶ崎かねがさき(現胆沢郡金ヶ崎町)を経て盛岡藩領に入り、鬼柳―花巻―石鳥谷いしどや(現稗貫郡石鳥谷町)郡山こおりやま(現紫波郡紫波町)―盛岡―渋民しぶたみ(現岩手郡玉山村)沼宮内ぬまくない(現同郡岩手町)―一戸(現二戸郡一戸町)福岡ふくおか(現二戸市)金田一きんだいち(現同上)の一五宿で、次の陸奥三戸に至る。ほぼ現在の国道四号に合致する。なお前記の宿駅を詠みこんだ奥道中歌には「うわさする人にくせ有壁に耳、口の開けたて一の関なり、山ノ目で酒呑んだゆえ前沢を、つい水沢と通る旅先、けふの日もはや入相の金ケ崎、旅のつかれを相去の関、東路を国のつつみに鬼柳、みどりつきせぬ千代の齢を、紅の色あらそふや花巻の、石鳥谷より見ゆる山畑、ほととぎす声はりあげて郡山、卯の花咲ける花の盛岡」などとある。


奥州街道
おうしゆうかいどう

五街道の一つ。江戸から陸奥国に向かう街道で、奥州道中とも称する。一般に千住せんじゆ(現東京都足立区)から三厩みんまや(現東津軽郡三厩村)に至る道を奥州街道と称するが、厳密にいうと千住から宇都宮うつのみや(現栃木県宇都宮市)までは日光街道に含まれ、次の白沢しらさわ(同河内郡河内町)より白河しらかわ(現福島県白河市)までの一〇宿が幕府の道中奉行支配に属していた。白河から先はその延長部と考えられ、勘定奉行の管轄下にあって各藩が支配に当たった。白河から先は須賀川すかがわ(現福島県須賀川市)―福島(同福島市)桑折こおり(同伊達郡桑折町)白石しろいし(現宮城県白石市)―仙台(同仙台市)古川ふるかわ(同古川市)一ノ関いちのせき(現岩手県一関市)―盛岡(同盛岡市)福岡ふくおか(同二戸市)を経て現青森県内に入った。県内では三戸さんのへ(現三戸郡三戸町)から浅水あさみず五戸ごのへ(ともに同五戸町)藤島ふじしま(現十和田市)七戸しちのへ(現上北郡七戸町)を通り、その先野辺地のへじ(同野辺地町)までは長者久保ちようじやくぼ(同東北町)を経由する本道のほか、つぼ柳平やなぎたい(同天間林村)を通過する道があった。野辺地の先は馬門まかど(同野辺地町)狩場沢かりばさわ(現東津軽郡平内町)間の盛岡・弘前両藩の境界を通過して小湊こみなと(同平内町)浅虫あさむし野内のない(ともに現青森市)から青森に入り、蟹田かにた(現東津軽郡蟹田町)平舘たいらだて(同平舘村)今別いまべつ(同今別町)を経て三厩に達した。宿次については千住から三厩まで一一四次、九〇次など数え方に差があり、区間も青森までとする説がある。

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国指定史跡ガイド 「奥州街道」の解説

おうしゅうかいどう【奥州街道】


岩手県二戸(にのへ)郡一戸(いちのへ)町、岩手郡岩手町にある街道跡。徳川家康は、江戸を中心に街道を利用して全国各地をつなぐ宿駅伝馬制を設け、1601年(慶長6)に東海道に、翌年には中山道と奥州街道に同制度を敷き、1604年(慶長9)からは街道沿いに一里塚を造営させた。このうち奥州街道は、参勤交代や物資の輸送など、江戸と東北とを結ぶ幹線の役割を果たした。江戸時代後期には、蝦夷地(えぞち)の調査や防備のため北に向かう幕臣や各藩の役人の往来もあった。奥州街道は千住(せんじゅ)(東京都)から下野(しもつけ)宇都宮(栃木県)までは日光街道と重なり、下野白沢(しらさわ)(栃木県宇都宮市)から陸奥白河(福島県)までの10宿が道中奉行支配のもと奥州道中と呼ばれたが、白河以北についても一般には奥州街道の延長とみなされて、沿道各藩によって整備し、維持された。盛岡(岩手県)を出て北に向かい、渋民(しぶたみ)・沼宮内(ぬまくない)両宿を経て現在の一戸町域に入った奥州街道は、馬羽松(まはまつ)、擦糠(すりぬか)、中山、火行(ひぎょう)、小繋(こつなぎ)、小鳥谷(こずや)、高善寺の集落を経て一戸宿に至る。盛岡から3番目の宿駅にあたる一戸には、参勤交代のため通行する八戸(はちのへ)藩、松前藩と領内を巡視する南部藩の本陣が置かれていた。南の宿駅である沼宮内からの距離は約32kmと長く、また起伏に富む険しい道のため、一戸までたどり着けない旅人が中山に泊まることもあったという。小繋は西の浄法寺(じょうぼうじ)(現二戸市)へ向かう巡検道との分岐点で、盛岡以北最初の番所が置かれていた。一戸を過ぎて北上すると、歌枕「末の松山」の地と称される浪打(なみうち)峠を経て福岡(現二戸市)へと向かう道筋だった。一戸町域の奥州街道は、明治以後も変わらず近世の趣を残す部分が多く、とくに南から擦糠、小繋・与の坂、高屋敷・川底、関屋・女鹿・小姓堂、浪打峠の5区間はかつての街道の雰囲気を今に伝える。また街道につくられた一里塚は、町域7地点のうち御堂(みどう)・馬羽松、中山、小繋、川底、浪打峠の5地点で現存する。奥州街道の一部5区間(延長8.8km)と、御堂・馬羽松、中山、川底、浪打峠の4つの一里塚が、2010年(平成22)に国の史跡に指定された。IGRいわて銀河鉄道いわて銀河鉄道線一戸駅から徒歩約7分。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「奥州街道」の意味・わかりやすい解説

奥州街道
おうしゅうかいどう

江戸時代、千住(せんじゅ)宿(東京都足立(あだち)区、荒川区)から陸奥(むつ)三厩(みんまや)(青森県東津軽(ひがしつがる)郡外ヶ浜(そとがはま)町三厩)に至る街道。時期により多少変化はあるが、115宿ほどの宿駅を数えた。奥州道中の別称でもある。しかし、幕府道中奉行(ぶぎょう)の管轄下にある江戸五街道の一つである奥州道中は白河(しらかわ)宿(福島県)までの街道のことで、しかも宇都宮(栃木県)までは日光道中と同道であった。そして白河宿以北の陸奥国の部分は奥(おく)街道、仙台道中、松前(まつまえ)道、仙台松前道などとよばれ、奥州道中と区別されることもあったが、しだいに江戸より三厩に至る街道を奥州街道または奥州道中とよぶことが多くなった。道筋は古代の東山道、中世の奥州より鎌倉に至る鎌倉街道沿いであるが、踏査的にみるとかなり異にする所が多く、各藩の街道整備でほぼ元和(げんな)・寛永(かんえい)期(1615~44)に定まったといえる。羽州街道の合流する桑折(こおり)宿(福島県)以南の通行量が多く、1821年(文政4)調べの奥州街道通行大名数は37家であった。盛岡城下以北の通行は少なかったが、幕末になると蝦夷(えぞ)地警備で江戸および諸藩と松前を往来する武士が多くなり、公用人馬の徴発が激増した。一方、江戸中・後期には、出羽(でわ)三山、松島、平泉などの参詣(さんけい)、遊覧の人々が増大し、また、伊勢(いせ)参りなど奥羽より江戸、上方(かみがた)方面に上る庶民の姿もしだいに多くなった。荷物は、上りは幕府・藩の江戸廻米(かいまい)、煙草(たばこ)・紅花(べにばな)などで、下りはおもに各城下町に運ばれる呉服・木綿などの衣料品が主であった。藩境には番所が設けられ交通の統制にあたったが、関東の栗橋(くりはし)番所(埼玉県)が性質上もっとも厳しかった。

[渡辺信夫]

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改訂新版 世界大百科事典 「奥州街道」の意味・わかりやすい解説

奥州街道 (おうしゅうかいどう)

中世の陸奥の主要幹線道路。古代の陸奥国の幹線的官道は,下野国から白河関をこえて陸奥国に入り,陸奥国を縦に貫く道である(東山道)。そのコースは,中世にも〈奥大道〉などと呼ばれて,基本的に変わることなく受けつがれた。それはまず阿武隈川の谷を北上し,宮城・福島県境の厚樫(あつかし)山(阿津賀志山)をこえて国府の多賀城に達し,そこからは奥羽山脈の東麓を北上して平泉に出,北上川沿いに北進して蝦夷地に達する。この道は太平洋岸の菊多関(のち勿来関(なこそのせき))および久慈川の谷を通って常陸国に出る二つの枝道と,宮城・山形県境の笹谷(ささや)峠をこえて出羽国に連絡する枝道を持ち,22の駅(うまや)を設けていた。蝦夷地との境は,10世紀ごろまでは岩手県中央部にあったが,その後それが北進するとともに,この街道も北にのびて,12世紀には外ヶ浜(津軽半島の東岸)に達した。そのコースは,ほぼ現在のJR花輪線に沿って奥羽山脈をこえ,鹿角・比内郡を通って津軽平野に入る,というものであった。近世では,宇都宮から白河に至る街道を正式には奥州道中といい(広義には千住以北を奥州街道と俗称),白河以北は仙台・松前道と称した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「奥州街道」の意味・わかりやすい解説

奥州街道
おうしゅうかいどう

江戸時代の五街道の一つ。奥州道中ともいう。また,奥羽街道,陸羽街道ともいう。江戸日本橋から草加 (そうか) ,古河 (こが) ,宇都宮,白河,郡山,二本松,福島,仙台,一ノ関,花巻,三戸,浅虫を経て青森にいたるまでの宿駅 69次の街道。諸説があるが,厳密には宇都宮までの日光街道を除く。 37大名がこの街道を通行し,幕末には蝦夷地開拓などの理由により,特にその重要性を増した。明治以降,陸羽街道と呼ばれ,ほぼ国道4号線にあたる。

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百科事典マイペディア 「奥州街道」の意味・わかりやすい解説

奥州街道【おうしゅうかいどう】

奥州道中

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世界大百科事典(旧版)内の奥州街道の言及

【奥州道中】より

…千住~宇都宮間の17宿は日光道中に属するが奥州道中をも兼ねる。白河以北は仙台・松前道と称する脇往還で,広義には千住以北を俗に奥州街道とも呼ぶ。当初は奥州筋への道が重視されたが,日光東照宮の造営以後,千住~宇都宮間は日光道中に編入されたとも考えられる。…

【千住】より

…江戸期は幕府直轄領。1594年(文禄3)荒川に千住大橋が創架されたころから町場化が進み,1625年(寛永2)奥州街道,日光道中(千住~宇都宮間の17宿が重複)の初宿に指定された。以来,公用貨客を運送する伝馬役,歩行(あるき)役を負担し,その代償として地子免除などの特権を与えられた。…

【仙台・松前道】より

…奥州道中北端の白河宿から北上して箱館(函館)に至る近世の脇往還。奥州地方を縦走するところから奥州街道とも俗称され,おもな道筋は福島―仙台―盛岡―野辺地(のへじ)―青森―三厩(みんまや),渡海して松前―箱館に達する。区間や宿駅数には諸説がある。…

※「奥州街道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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