日本歴史地名大系 「富吉庄」の解説
富吉庄
とみよしのしよう
吉野川(現旧吉野川)の南岸一帯に広がっていたとみられる庄園。庄域は現藍住町
「勘仲記」弘安六年(一二八三)一〇月九日条によれば、室町院(暉子内親王)が叔母安嘉門院(邦子内親王)の五七日(死後三五日目の忌日)に曼荼羅供を修した際に布施を調進した室町院領の一所として富吉庄がみえ、「今林准后知行」と注記される。今林准后は西園寺実氏の妻藤原貞子。当時本家職は室町院、領家職は今林准后が有していたのであろう。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)によれば、当庄は本来今林准后の祖父藤原(四条)隆房の所領で、そののち孫の今林准后に領家職が伝領された。一方、本家職は室町院から中務卿宗尊親王(後嵯峨天皇皇子、鎌倉幕府将軍)へ譲られることになっていたが、文永一一年(一二七四)親王が室町院に先立って死去し、正安二年(一三〇〇)室町院も没したため、当庄は親王の遺跡(後嗣)に付せられることとなり入道将軍(宗尊親王の子、鎌倉幕府将軍維康親王)が領知し、さらに亀山院領となり、その娘の昭慶門院(憙子内親王)に伝領されたと考えられる。
富吉庄
とみよしのしよう
旧
「兼仲卿記」建治元年(一二七五)一〇月巻裏文書に次のようにみえる。
永仁六年(一二九八)一一月二六日、富吉庄預所伊勢太郎兵衛尉久定が強盗に殺された際に放火され、貞応元年(一二二二)・仁治二年(一二四一)・文永元年(一二六四)の下知状と北条遠州禅門去状以下証文などが焼失した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報