富岡吉利支丹供養碑(読み)とみおかきりしたんくようひ

日本歴史地名大系 「富岡吉利支丹供養碑」の解説

富岡吉利支丹供養碑
とみおかきりしたんくようひ

[現在地名]苓北町富岡

富岡半島の基部にある。国指定史跡。俗に千人せんにん塚・くび塚ともよばれ、天草島原の乱時の戦死者を供養した碑。正保四年(一六四七)代官鈴木重成の建立。碑文の撰者は中華珪法。高さ約二メートルの塚の上に灌木で囲まれ、安山岩の自然石からなる供養碑が建つ。碑の高さ約二メートル、正面上部に円に囲まれて(俗称うはきゅう)の彫込みがあり、その下方中央には「若有聞法者無一不成仏窃惟」と大書され、その両側には碑建立の趣意漢文で刻まれている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「富岡吉利支丹供養碑」の解説

とみおかきりしたんくようひ【富岡吉利支丹供養碑】


熊本県天草郡苓北(れいほく)町富岡にある供養碑。天草下島(しもしま)の西北端、海ぎわの微高地に所在する。天草・島原の乱の犠牲者を弔うために建てられた石碑で、「首塚」「千人塚」とも呼ばれ、1937年(昭和12)に国の史跡に指定された。1637年(寛永14)、天草四郎時貞(ときさだ)を大将として農民キリシタン信者たちが起こした一揆翌年鎮圧され、一揆の戦死者の首は3ヵ所に分けて葬られた。そして10年後の1647年(正保4)に、天草の初代代官・鈴木重成によって供養碑が建てられた。碑文は東向寺開祖・中華珪法(ちゅうかけいほう)の撰。供養碑は直径約8m、高さ約2mの塚の上に建てられており、高さ1.92m、幅86cm、厚さ41cmの安山岩の自然石である。かつて一揆勢が富岡城をめざして進んだ場所に、350年余も風雨にさらされ建っているが、碑文の文字は鮮明に残る。JR三角線三角駅から産交バス「富岡三叉路」下車、徒歩約5分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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