日本歴史地名大系 「小二又村」の解説 小二又村こぶたまたむら 富山県:西礪波郡福光町小二又村[現在地名]福光町小二又小院瀬見(こいんぜみ)村の北西にある。小矢部(おやべ)川支流太谷(ふとだに)川の上流部が古屋敷(ふるやしき)谷と桃敷(ももしき)谷に分れる所にあるので初め二又とよばれ、のちに小二又と改めたという(福光町史)。小二俣とも記された。加賀国への道が通り、同国河北(かほく)郡横谷(よこたに)村(現石川県金沢市)からの距離は一里二三町一〇間(元禄一四年「覚」改作所旧記)。天正一三年(一五八五)佐々成政は前田利家の出城鷹巣(たかのす)城(現金沢市)を急襲したが敗退、医王(いおう)山中に逃れようとしたが小二又で追撃を受け、佐々軍は太谷川峡谷に逃落ちたと伝える(三州志)。 小二又村こふたまたむら 石川県:金沢市旧河北郡地区小二又村[現在地名]金沢市小二又町牧(まき)村の南東に位置。「こぶたまた」ともよぶ。中世は小坂(こさか)庄西方の内。「大乗院寺社雑事記」文明一二年(一四八〇)二月七日条に、春日社権預新祐松の報告として、小坂西方で「小二俣山相論事」が出来したため年貢が届かないとあり、蓮如に国元への指示を依頼したことがみえる。同月一七日には蓮如の返書が届いたが、国人衆を討つことは遠慮したいとあり、大乗院尋尊の依頼には消極的だった(同書同年六月六日条裏書)。同書翌一三年三月一一日条にも「小坂庄西方之内二俣山相論」に際し尋尊が書状を出したとある。二俣(ふたまた)は「井家庄内二俣村」(蓮如上人塵拾鈔)とも考えられ、二俣と小二俣の境界の山の可能性も残るものの、小坂庄西方に含まれるのは当地と解すべきであろう。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by