小国村
おぐにむら
[現在地名]世羅西町小国
世羅郡西部に位置し、津口川(現美波羅川)およびその支流域に展開する在郷町のある農村。南北の分水嶺により村域が設定されている。早くから交通の中継点として発達し、北は吉舎(現双三郡吉舎町)・三次、南は久井(現御調郡久井町)・三原、西は乃美(現賀茂郡豊栄町)・四日市(現東広島市)へ通じる交通の要地である。河川敷周辺の微高地には古墳が築造され、津口川北岸のやや小高い場所に市場が成立した。小国市場は、もと橋本の市場と称し、市岡・市口・今屋小路・大門小路などという地名も残り、町屋橋(松屋橋)や市岡の胡子堂などもあったが、度々の火災のため衰微したという。大宮神社境内社の愛宕社の祭礼の相撲(毎年七月二四日)には、鎮火に関する言伝えが残る(世羅郡誌)。
小国村
おぐにむら
[現在地名]川井村小国
小国川の上流、江繋村の南に位置。四周を妙沢山(一一〇三・三メートル)、白見山、オーヅ岳(一〇二九メートル)、一ッ石山(一〇五九メートル)などの高山に囲まれ、小国の地名の示すように一つの別小天地をつくる。小国川の支流土沢・湯沢の二つの谷川に挟まれた尾根上に大梵天館跡がある。館主は甲斐武田氏を本姓とする小国氏で、文亀二年(一五〇二)に祖彦十郎忠直が建立したものと伝える。小国氏は天正年間(一五七三―九二)江繋氏に滅ぼされたという(参考諸家系図)。初め北閉伊代官の支配下にあったが、寛文(一六六一―七三)の頃、通制実施にあたり豊間根村(現山田町)と替地、泉沢村などとともに大槌代官所(現上閉伊郡大槌町)支配となる。
小国村
おぐにむら
[現在地名]蟹田町小国
蟹田川の中流域一帯を占め、東は蟹田村・中師村・石浜村、南は蟹田新田(現蟹田外黒山)・南沢村、西は山本村に接する。
寛文四年(一六六四)一一月一日の中師御山奉行宛の定(津軽家御定書)に「中師出材木吟味之ため来春下小国に御番所を相立可差遣之」とみえ、すでに上中下の小国の名称が使用されている。貞享四年(一六八七)の検地帳では小国村と一まとめにされて、村高五二一・二六六石、うち田方三二二・八九八石、畑一九八・三六八石、漆木一八六本とみえる。元禄三年(一六九〇)の「平山日記」に村名がないが、享保一二年(一七二七)の「新田先年より村名此度改名ニ成分並村日記」(平山日記)に「後潟組之内小国新田三ケ村、下五小国村、下五南沢村、下五山元村」とある。
小国村
おぐにむら
[現在地名]温海町小国
日本海に西流する小国川の河口から二里弱上流の山間にあり、小国街道が通る。東は木野俣村、南は小鍋村。枝郷として神馬沢村と峠野(ノ)山村がある。羽越国境に近い要衝として、集落の南の楯山に小国氏の拠城小国城跡があり、古くより番所が置かれた。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高四四四石余。寛永三年庄内高辻帳では高三九三石余。正保郷帳の高三八九石余はすべて田方。
天保九年(一八三八)巡見使田川組案内帳(鶴岡市郷土資料館蔵)では高二九七石で、江戸時代初頭の村高に比較して、かなり低くなっているが、その理由はつまびらかでない。
小国村
おぐにむら
[現在地名]山形村小国
川又川の上流域を占め、西は角掛峠を経て霜畑村、東は木売内村(現久慈市)、南は峰続きで閉伊郡安家村(現下閉伊郡岩泉町)。沼宮内野田道が通る。古くは霜畑村とともに南山形村を構成していたが、江戸時代末期に至り独立村となった。元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳には南山形通村三ヵ村の一として村名がみえ、高六二石余で畑方のみ。天保八年(一八三七)の仮名付帳では南山形村の枝村として村名が記載されている。
小国村
おぐにむら
[現在地名]金城町小国
金木山の南麓、小国川の下流部に位置。北は上来原村、東は徳田村、南は波佐村。領主の変遷は乙明村と同じ。正保国絵図に村名がみえ、高二〇二石余。古高も同高で、寛永一四年(一六三七)の検地高四二三石余(明治四年万手鑑)。当地は鑪製鉄が盛んで、小国富士とよばれている二子山(六六〇メートル)では、古くから柚根村より水路を引込み鉄穴流しが行われていた。
小国村
おぐにむら
[現在地名]平賀町小国
浅瀬石川支流の小国川中流にあり、南東に葛川村、北方下流に沖浦村(現黒石市)がある。
藩政期には小国を中心とした琵琶野、こんだか屋敷などで採れた蕨は、幕府や藩に献上された。小国蕨は津軽一と称され、藩では採場を絵図で指定した。延宝四年(一六七六)の書上絵図によれば、上の場所がこんだか屋敷と小国、中の場所が琵琶野の沢から浅瀬石川へ下る道、下の場所は大菅場派までとある。
小国村
おぐにむら
[現在地名]仁賀保町小国
冬師山の西麓、大沢川中流に位置し、北は院内村、南は馬場村、西は田抓村に接する。
天保郷帳に「古者 小国村 下小国村 弐ケ村」とあり、由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に仁賀保郷の村として、小国沢村・下小国村がある。現在大沢川上流に上小国、下流に小国の地名があり、正保四年(一六四七)の出羽一国絵図では上流に小国、下流に下小国とある。
支配の変遷は長磯村と同じで、寛永元年(一六二四)仁賀保氏の分知に際し内記誠次(千石家)領となった。
小国村
おぐにむら
[現在地名]府中市小国町
諸毛村の南に位置し、南は三郎丸村。谷あいに耕地が点在し、「芸藩通志」に「広十四町、袤九町、山間にあり、水利便ならず、三郎丸と土地入交る」とある。近世には御調郡に属し広島藩領。古代の同郡小国郷(和名抄)の中心地に比定され(芸藩通志、旧版「広島県史」)、「御調郡誌」は「此地山間の高地なれども古墳ありて早く開けし地なり」という。
村名は正徳(一七一一―一六)頃の郡村高帳(旧版「広島県史」所収)にみえ、高一四石余、「芸藩通志」によれば反別四町三反余・高一四石七斗余、家数一九・人数一〇〇、牛一八・馬六。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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