小堤村
こづつみむら
[現在地名]亘理町 五日町・祝田・茨田・茨田前・茨田後・一本松・浜街道・泉ヶ入・新井町・堀の内・鳥居前・竜円寺前・沼頭・上町・上中野地・上茨田・亀井戸・上浜街道・台田・舘南・中町・中町東・裏城戸・中野地・牛殺・倉庭・旧舘・旭山・油田・愛宕前・北新町・北牛殺・北江下・境堤・桜小路・狐塚・北新田・北猿田・雪穴・南町・南草刈谷地・見田内・道田西・南猿田・道田中・南新田・道田東・新町・芝西・下茨田・下浜街道・下小路・下中野地・卑下入・先達前・江下・南町東・旭
南は長瀞村、北は鹿島村、東は高屋村、西は伊具郡平貫村(現角田市)。
小堤村
こつつみむら
[現在地名]総和町小堤
上大野村の西に所在。東部を長井戸沼(現在は水田)西枝が南北に貫き、村域の中央でさらに二股に分枝し、これらはヤト田を形成している。東端・北端は平地林が多い。長井戸西枝上流台地の字上ノ下に上ノ下遺跡、字上宿に上宿A遺跡があり、製鉄跡に上宿B遺跡が確認されている。
「吾妻鏡」治承五年(一一八一)閏二月二三日条の志田義広挙兵の記事に「下河辺庄司行平、同弟四郎政義、固古我、高野等渡、討止余兵之遁走云々、足利七郎有綱(中略)等、取陣于小手差原、小堤等之処々合戦」とあり、源頼朝方の下河辺氏・足利氏が古我(現古河市)、高野・小堤、小手差(現五霞村)で志田勢と戦っている。
小堤村
おんづみむら
[現在地名]横芝町小堤
取立村の北に位置し、東を栗山川が流れる。要害・城ノ内などの地名がある一帯は中世の小堤城跡で、同城は一五二〇年代に千葉氏一族の三谷氏により築城され、三谷氏滅亡後は井田氏の居城坂田城の三要害の一つであったという。遺構は三郭が確認され、空堀・湧水跡などもみられたが、現在は消滅。江戸時代にも要害の長徳寺境内に城跡があることが知られていた(文政一一年「村明細帳」神保家文書)。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に小堤村とみえ、高四一五石。慶長五年(一六〇〇)まで石川氏成東領であったが、のち旗本布施・永田二氏の相給となる(「小堤村旧記」神保家文書)。
小堤村
こづつみむら
[現在地名]野洲町小堤
大篠原村の西にあり、天井川となった家棟川が西端を北へ流れる。集落は中央部を横断する中山道沿いの字西出・東出に集中する。中山道の北側の耕地には条里地割とともに字七之坪の呼称も残るが、南側の鏡山山麓の耕地に条里地割は認められず、四つの溜池とともに条里施行以降の開発であろう。大笹原神社の頭人差定帳(大笹原神社文書)には、永正五年(一五〇八)小堤四郎二郎、同六年左近九郎というように、毎年小堤から一名天王神事の頭人が出ている。天正一九年(一五九一)四月の徳川家康知行目録写(大谷文書)に永原・小堤として一千一五石余とある。
小堤村
こづつみむら
[現在地名]川越市小堤・鯨井新田
下小坂村の南西、鯨井・上戸両村の西、小畔川左岸の低地および台地に立地。高麗郡に属した。もと上小坂村と称したが、寛永(一六二四―四四)頃小畔川に堤が築かれ、小堤村と改称と伝えるが(風土記稿)、小田原衆所領役帳に諸足軽衆の富島彦左衛門の所領として「廿九貫五百二十五文 小堤」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が実施された。
小堤村
おづつみむら
[現在地名]金成町大堤
沢辺村の北西、南東流する三迫川右岸に立地する。北は大原木村、南西は蛇田山(八五・三メートル)を挟んで菱沼村(現栗駒町)と接する。文和四年(一三五五)二月一一日の佐竹義篤譲状写(佐竹文書)に陸奥国「小堤村」とみえ、嫡子義香に譲られている。「余目記録」に「文治五年ニ御発向有て秀衡たいちし、平泉まて御下向候て、御帰ニ三迫、おつつみ、松山と申所ニ御陣をめされ」とあり、奥州合戦で平泉藤原氏を滅ぼした源頼朝が、帰途同地に立寄っている。
小堤村
おづつみむら
[現在地名]茨城町小堤
涸沼川の右岸に位置し、西は奥谷村。中世は宍戸氏の支配下にあった。慶長七年(一六〇二)秋田氏領となったことを示す御知行之覚(秋田家文書)に、おつゝみ村六七七石とある。江戸時代は水戸藩領となり、寛文三年(一六六三)の開基帳(彰考館蔵)に「小堤村」とみえる。天保一三年(一八四二)の検地では田畠六一町余、分米五〇三石余(新編常陸国誌)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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