江戸時代,日光東照宮に参詣すること。社参者には,日光例幣使,将軍,大名,旗本,御家人,一般の武士や農工商の庶民など,さまざまの身分階層にわたったが,御宮(東照宮)と大猷院(家光)御霊屋(おたまや)に拝礼を許されるのは旗本以上に限られ,御家人以下の身分の者は拝見が許されただけであった。江戸時代を通じて16度行われた将軍の社参は,4月17日(家康命日)の法要に集中しているが,莫大な費用と人手をともなうので,4代徳川家綱以降は8代吉宗,10代家治,12代家慶に各1回が記録されているにすぎない。1776年(安永5)家治の社参のときには供奉の大名・旗本とその家臣,上野・下野・下総・常陸・武蔵などの農村から動員された人足を含めて延べ400万人,馬30万疋,金22万両(これは幕府の年収の約7分の1にあたる)を要している。また将軍社参には日光道中栗橋宿と中田宿の間で利根川に船橋が架けられたが,8代吉宗のときはそれに2万両の費用がかかったと伝えられる。将軍社参のない年は大名による代参があり,また各大名の社参やその家臣による代参もあった。大名や旗本には,日光山内にそれぞれ宿坊が定まっており,彼らはその案内で拝礼をすませたが,それは家康や家光に対する御目見(おめみえ)であり,そのときの服装には江戸城中でのそれが着用された。
幕府が庶民にも社参を許したのは,堂社の荘厳を拝見させて東照大権現の権威を印象づけることに目的があった。日光は中世以来の修験の道場であり,山中の院・坊を宿坊として修行のために訪れた修行者(日光では堂者と称した)に,宿坊を案内人として堂社を拝見させようというのであった。しかし後期になると,寺社や聖地めぐりのついでに東照宮も拝見しておこうという社参者が増加し,幕府の意図がどこまで貫徹したかは疑わしい。日光奉行からの幕府への報告によれば1841年(天保12)ごろの庶民の社参者は,堂者1万人,それ以外の者2万5000人の計3万5000人であった。
執筆者:高木 昭作
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