小島庄(読み)おじまのしよう

日本歴史地名大系 「小島庄」の解説

小島庄
おじまのしよう

池田いけだ郡に所在した庄園で、京都青蓮しようれん院門跡領。庄域は揖斐川かす川に挟まれた現揖斐川町小島こじま一帯より、東は揖斐川、南は粕川、西は粕川上流の春日かすが川合かわい、北は揖斐川支流の広瀬ひろせ川付近の坂内さかうち村広瀬にまで及んだと考えられる。庄名は「和名抄」記載の池田郡小島郷を継ぐ。

建暦三年(一二一三)二月日の慈鎮所領譲状案(華頂要略)に小島庄とみえ、慈円(慈鎮)が西山宮朝仁親王に譲った門跡相伝房領の一つであった。貞応元年(一二二二)六月日の青蓮院門跡領年貢定文(同書)によれば、当庄は上品八丈絹六〇疋を納めることに定められている。南北朝期、当庄は土岐頼清の本拠地となったようで、子の頼康は父の菩提を弔うために小島瑞巌ずいがん寺を建立した(土岐累代記)。文和二年(一三五三)山名時氏・師氏父子が南朝方に属して京都を攻撃した。このため近江坂本さかもと(現大津市)へ逃れ出た後光厳院は垂井たるい(現不破郡垂井町)を経て当庄内に短期間逗留したが、このとき守護土岐頼康が供奉し、小島頓宮の建物を造営した。

小島庄
こじまのしよう

徳島市応神町西貞方おうじんちようにしさだかた字小島付近に所在したとされる。「和名抄」に載る板野郡小島おしま郷の名を継ぐものとみられ、「和名抄」は「乎之末」(高山寺本)、「乎之万」(伊勢本・東急本)と訓じているが、ここでは当地小島の現在の読みに従う。寿永三年(一一八四)四月五日の源頼朝下文案(久我家文書)に河内国走井はしりい(現大阪府枚方市)等一七ヵ所のなかに「小島庄阿波」がみえ、源頼朝は後白河法皇から与えられた平家没官領の当庄などを池大納言平頼盛に返付している。その理由は、「吾妻鏡」元暦元年(一一八四)四月六日条によれば、平治の乱後に処刑されるところを頼盛の母である池禅尼に助けられた恩に報いるためであった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android