松島の一角に建つ。老杉に囲まれた本堂の前方約三〇〇メートルは波打際である。正式名称を松島青龍山
寺伝では天長五年(八二八)比叡山延暦寺第三代座主慈覚大師円仁が淳和天皇の勅宣を承り、近江
なお鎌倉中期に常陸国で記された「私聚百因縁集」の慈覚大師伝記中に「只非山上洛下
前掲「天台由緒記」によれば執権五代北条時頼は宝治二年(一二四八)諸国行脚の途次松島に立寄り、折からの鎮守山王社祭礼の邪魔をし、怒った衆徒に危うく殺害されそうになったが、祭礼の日に殺生は不可という計らいでようやく助かって岩窟に逃込み、面壁中の法心性西(法身性才とも)と邂逅した。鎌倉に戻った時頼は三浦義成に一千の兵を授けて天台衆徒を追払い、住持儀仁を佐渡に流し、新たに円福寺を開き、岩窟から法心を捜し出して開山に据えたという。寺を追われた天台衆徒は
一方観応元年(一三五〇)一一月日の円福寺雑掌景言上状案(寺蔵文書)には「右当寺者、去建長年中、為
縁起によると、甲斐国
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
宮城県宮城郡松島町にある臨済宗妙心寺派の寺。正称は青竜山瑞巌円福禅寺。838年(承和5)開創と伝える。開山は円仁。初め天台宗で青竜山延福寺と称したというが,その後鎌倉時代に北条時頼の手により臨済宗に改宗した。1605年(慶長10)伊達政宗が堂宇造営に着手,09年本堂が完成した。江戸時代には仙台藩主伊達氏の菩提寺として栄えた。1789年(寛政1)の《妙心寺派下寺院帳》によれば,塔頭(たつちゆう)22ヵ寺,末寺50ヵ寺をかかえる大寺で,寺領は約750石であった。
執筆者:圭室 文雄 本堂(1609,国宝)はもと方丈建築で,桁行13間,梁間右側面9間,左側面8間,6室からなる大規模な建築で,上段の間には床,棚,帳台構(ちようだいがまえ)をおき,上々段には違棚と付書院を設け,豪華な桃山様式を示す。庫裏(くり)(1609,国宝)は切妻造妻入りで,正面の柱,束(つか),白壁の構成と上部の唐草彫刻で装飾した笈形(おいがた)が美しい。入口の土間上部は天井をはらず,雄大な小屋組みをあらわす。他に日本三景の一つ松島を臨む位置に五大堂(1604,重要文化財)が建つ。
執筆者:谷 直樹
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宮城県宮城郡松島町松島字町内にある臨済(りんざい)宗妙心寺派の寺。青龍山(せいりゅうざん)と号し、円福(えんぷく)寺とも松島寺ともよばれるが、正式には青龍山瑞巌円福禅寺(えんぷくぜんじ)という。本尊は聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)。伊達(だて)家代々の菩提寺(ぼだいじ)として栄えた。838年(承和5)(一説には承和2年=835、寺伝では天長5年=828)天台宗の慈覚(じかく)大師円仁(えんにん)の開創と伝えられ、もとは延福寺(えんぷくじ)と称した。鎌倉時代に執権北条時頼(ときより)が堂宇を復興し、性才法身(しょうさいほっしん)(法心)を開山として円福寺と改め、鎌倉建長寺・円覚寺末の臨済宗寺院となった。応仁(おうにん)期(1467~69)以後、堂宇は荒廃したが、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)に伊達政宗(まさむね)が復興し、瑞巌円福禅寺と改称。政宗の遺志を継いだ2代忠宗(ただむね)が妙心寺から雲居希膺(うんごきよう)を迎え、中興第1世となってから瑞巌寺の道風は広く知られるようになり、全国から臨済の雲水が集まる禅の大刹(たいさつ)となった。現在の本堂(元方丈)、書院、玄関、庫裏(くり)などは1609年(慶長14)政宗が建造したもの。なかでも本堂は豪壮、華麗な桃山式建築で、庫裏・廊下とともに国宝に指定されている。御成門(おなりもん)、中門、五大堂などは国重要文化財。境内には法身が籠(こも)っていたという法身窟(くつ)、政宗が朝鮮から持ち帰ったという紅梅・白梅などがある。
[菅沼 晃]
『『探訪日本の古寺Ⅰ 東北・北海道』(1981・小学館)』
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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