小杉榲邨(読み)こすぎすぎむら

精選版 日本国語大辞典 「小杉榲邨」の意味・読み・例文・類語

こすぎ‐すぎむら【小杉榲邨】

  1. 国学者文学博士。名を「おんそん」ともいう。号、杉園。徳島の人。東京大学講師、帝室博物館鑑査掛、東京美術学校教授などを歴任古典古美術に通じ、書・和歌にすぐれ、「古事類苑」の編纂に尽くした。著作有職故実」「徴古雑抄」など。天保五~明治四三年(一八三四‐一九一〇

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小杉榲邨」の解説

小杉榲邨 こすぎ-すぎむら

1835*-1910 明治時代の国文学者,日本史学者。
天保(てんぽう)5年12月30日生まれ。阿波(あわ)徳島藩主蜂須賀氏の陪臣江戸で古典などをまなび,尊攘(そんじょう)運動にくわわる。維新後は文部省で「古事類苑」を編集し,明治15年東京大学講師,32年東京美術学校(現東京芸大)教授。帝国博物館にも勤務し,美術品の調査や保存にあたる。明治43年3月29日死去。77歳。号は杉園(さんえん)。編著に「阿波国徴古雑抄」など。

小杉榲邨 こすぎ-おんそん

こすぎ-すぎむら

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世界大百科事典(旧版)内の小杉榲邨の言及

【法隆寺再建非再建論争】より

…同伽藍が日本最古の建造物であることから,建築史,美術史,日本史,考古学の諸家によって19世紀末から半世紀にわたって論争された。すでに早く1899年黒川真頼(まより)(1829‐1906)と小杉榲邨(すぎむら)(1834‐1910)が《日本書紀》天智9年(670)4月条の法隆寺全焼の記事によって,創建法隆寺は同年に焼亡し,現在の西院伽藍は和銅年間(708‐715)に再建したものという説を唱えたが,1905年関野貞(ただす)(1867‐1935)と平子鐸嶺(たくれい)(1877‐1911)が非再建説,喜田貞吉(1871‐1939)が再建説をそれぞれ主張して第1次論争が行われた。非再建説は飛鳥,白鳳,天平と変遷する建築様式論に基礎をおくが,特に西院伽藍建造の使用尺度が大化以前の高麗(こま)尺であるという関野の尺度論が重要な論拠となった。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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