小浦(読み)こうら

日本歴史地名大系 「小浦」の解説

小浦
こうら

[現在地名]米水津村小浦

竹野たけの浦の西、米水津湾の北東岸に位置。慶長一四年(一六〇九)当浦肝煎に竹野浦左京が任じられている(「毛利高政下知状」御手洗文書)正保郷帳に「小浦」とみえ、畑方のみで高三石余、米水津郷に属した。元禄郷帳・天保郷帳では下浦しもうら村の内に含まれたと思われ、元禄見稲簿では下浦村の内で無高。享和三年(一八〇三)の郷村仮名付帳(佐伯藩政史料)では下浦村の枝郷で、米水津浦五ヵ浦の一、地内に柏野かしのがある。文化七年(一八一〇)の家数三四・人数二六四(温故知新録)。天保四年(一八三三)の改正郷村明細帳(御手洗文書)によれば高三一石余・反別五町一反余、家数六二・人数三四七、御立林四ヵ所・百姓仲間山三、鰯干浜三反余(運上銀一四匁余)、小漁運上銀一〇匁余、船数六三(役目船一・小引網船四・三枚帆一・右手船六・四枚帆一・六反帆一・小船四九)、番所一・遠見番所一がある。


小浦
おうら

[現在地名]日高町小浦

山の西方にあり、西は小浦崎を先端に太平洋に突出する。南東津久野つくの浦、北東は方杭かたくい村。慶長検地高目録では村高一三七石余。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」によれば田畑一一町三反余、加子米一四石、家数九二で内訳は本役二五、半役四四、無役二〇、庄屋・年寄・ありき各一、人数三〇五、牛一二、舟数一三(柴舟二・漁舟五・磯舟六)、網四(地引網三・四艘張一)。柴舟は当浦や方杭のような小湾で比較的交通不便な浦に多く、薪をこしらえて、この舟で運び、現金収入を得ていたものである。


小浦
こうら

中世、佐護さご郡内にみえる地名。南北朝期、宗澄茂は八幡宮の灯油田の年貢を無沙汰なく貢納するとともに、与良よら郡の買地について「佐須奈内大浦小浦」も前例に従うべきこととしている(年未詳八月一三日「宗澄茂書下写」宗家判物写)。応永三二年(一四二五)六月一四日の宗貞盛安堵書下(豊崎郷給人等判物写、以下同判物写)に「さこの郡之内あふら地」として「こうら」「いくち」とみえ、宗三郎に安堵された。「こうら」は河内かわちの枝郷の小浦、のちの左河内さごうちに比定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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