小田原村(読み)おだわらむら

日本歴史地名大系 「小田原村」の解説

小田原村
おだわらむら

[現在地名]仙台市自由じゆうおか安養寺あんようじ一―三丁目・蟹沢かにさわ枡江ますえ二の森にのもり幸町さいわいちよう一―五丁目・大梶おおかじ原町はらのまち三―六丁目・清水沼しみずぬま一―三丁目・小松島新堤こまつしましんつつみあさひおか一―四丁目・小松島こまつしま一―四丁目・高松たかまつ一―三丁目・台原だいのはら四―七丁目・東照宮とうしようぐう一―二丁目・宮町みやまち三―五丁目・福沢町ふくざわまち中江なかえ一―二丁目・台原森林公園だいのはらしんりんこうえん・小田原二―三丁目・同六―八丁目・東仙台ひがしせんだい二―七丁目・燕沢つばめざわ一丁目・原町小田原はらのまちおだわら

南目みなみのめ村の北。北部は上町かみまち段丘の丘陵地であるが、大部分宮城野原みやぎのはら平原に続く平坦地。梅田うめだ(藤川)が南部を東流し福室ふくむろ村に至り、七北田ななきた川に合流している。


小田原村
おだわらむら

[現在地名]大津市大石小田原町おおいしおだわらちよう

曾束そつか村の南東にあり、南は山城国境。山間の集落で、宇治田原うじたわら越が通る。中世は北西方の曾束と禅定寺ぜんじようじ(現京都市綴喜郡宇治田原町)の境相論の争点の一つ「小田山」「小田谷」(徳治三年七月「曾束庄雑掌良因重申状」禅定寺文書)などは当地をさす可能性がある。元応元年(一三一九)五月の禅定寺領・近隣諸庄堺相論記録注進状案(同文書)には「小田原堀谷」とみえ、建久期(一一九〇―九九)に禅定寺と山滝寺との間に相論があった。貞治三年(一三六四)二月小田原坂尻の所当米三斗(毎年)が「四季廿五三昧料足」として尼行意より寄進されている(同文書)


小田原村
おだわらむら

[現在地名]大河内町上小田かみおだ南小田みなみおだ

宮野みやの村の東から北に位置し、小田原川の上流域に立地する。川沿いに日和ひよりから高倉このくらまで民家が点在する。「播磨国風土記」神前かんざきはにおか里の条にみえる湯川ゆかわの地とされ、天正(一五七三―九二)頃まで小田原川は湯川とよばれていたという(「三王記録」西藤家文書)。地内に薬師堂屋敷やくしどうやしき湯町ゆまちの地名が残る。慶長国絵図に村名がみえ、村域内にはほかに石田いしだ村・「かきノおく」が記されている。領主の変遷は寺前てらまえ村と同じ。正保郷帳では田方一八一石余・畑方一三九石余、「旱損所・柴山有」と注記される。


小田原村
こだわらむら

[現在地名]豊後高田市小田原

佐野さの村の東、西叡さいえい山北麓のかつら川中流域に位置する。江戸時代の領主の変遷は上来縄かみくなわ村に同じ。慶長豊後国絵図に村名がみえる。小倉藩元和人畜改帳によると高八四六石余、家数一一八(うち百姓四〇・山守一、隠居・庭屋・名子・下人・牛屋・裏屋七七)・人数二六二(うち百姓四〇、名子・下人三一)、牛三四・馬二。正保郷帳では田染たしぶ庄に属し、田方四八七石余・畑方一三九石余、茅山・柴山・新田がある。


小田原村
こだわらむら

[現在地名]長野市信更町小田原

東は山林と谷で田之口たのくち村、南は高雄たかお山で桑原くわばら村、西は山林で中牧なかまき村(現上水内かみみのち信州新しんしゆうしん町)、北は高野たかの村と山地と耕地でそれぞれ境する。ひじり川が西南から東北へ向かって流れている谷あいの村である。

中世はまき城の香坂氏領。戦国時代は武田晴信の家臣牧之島まきのしま城主の支配に属し、次いで上杉景勝の支配に属した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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