小野尻村(読み)おのじりむら

日本歴史地名大系 「小野尻村」の解説

小野尻村
おのじりむら

[現在地名]山南町小野尻・若林わかばやし富田とみた

氷上郡の南西端に位置し、東は和田わだ村・小新屋こにや村。西方の小野尻坂を越えると播磨国多可たか牧野まきの(現中町)、南のなが坂を越えると西安田にしやすだ(現同上)。「政所賦銘引付」文明八年(一四七六)四月九日条に小野尻村とみえ、代官豊田四郎左衛門の借物にからんで当村の代官職を森三郎左衛門に預け置いたところ、前代官豊田は再び代官職への復帰を企てていると領家園基有が幕府に訴えている。


小野尻村
このじりむら

[現在地名]矢部町野尻のじり

東は男成おとこなり村・稲生原いのばる村に接し、西境笹原ささわら川が流れる。応仁(一四六七―六九)頃とされる男成宮社頭注文(男成文書)に「小野尻よりハ、こていところなり」とみえる。健児こでい所に要員もしくは資材を献上したものとみられる。永禄一一年(一五六八)の男成郷検断注文写(同文書)および同年と推定される一〇月四日の阿蘇家奉行連署奉書(同文書)によると、当村で「田ぬす人」に関する検断が行われた。当給人の竹崎孫次郎から以前の「覚」に反して井手に関する相論が起こされたことに対し、男成越前守と甲斐太郎とは先例の「覚」を再確認し、阿蘇家に検断をあおいだ。


小野尻村
おのじりむら

[現在地名]玉名市小野尻

菊池川(高瀬川)の三角洲の北端に位置する塘下の村。近世初頭の加藤清正による掘替工事以前は島であったとされる。東は伊倉北方いくらきたがた村、西は小島おしま村、北は千田河原せんだかわら村、南ははま町に接する。天正一五年(一五八七)一〇月一日の佐々成政黒印状写(内田文書)伊倉いくらのうちとして「南方おのしり」がみえ、田方八町・畠方六町三丈が加増分として山上三名字衆中へ宛行われている。天正検地を写したとされる慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によれば田二〇町一反三畝余・畠屋敷一五町二反二畝余・屋敷五筆、分米三二九石五斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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