日本歴史地名大系 「若林村」の解説
若林村
わかはやしむら
天文期(一五三二―五五)には若林郷と称し、
とあり、給人田代亀房丸の存在が知られ、また天文二二年の梅千代王丸足利義氏印判状写(同文書)には、
とあって、古河公方に招かれた医家田代三喜の所領となっていたことがわかる。また永禄一〇年(一五六七)の足利義氏安堵状写(同文書)に「下幸嶋荘之内若林郷、如前々知行不可有相違候」、天正二年(一五七四)の古河公方足利義氏料所目録(喜連川文書)の「上幸嶋」に「わか林 三喜斎」とあり、三喜の支配が続いていた。一方では永禄四年に下総関宿城主簗田氏から「若林村 中村小次郎」などへ籠城の催促状(中村家文書)が出されており、簗田氏の支配も及んでいたとも思われる。
若林村
わかばやしむら
- 大阪府:松原市
- 若林村
若林村
わかばやしむら
- 東京都:世田谷区
- 若林村
若林村
わかばやしむら
若林村
わかばやしむら
市域南端部に位置する。
近世初めは刈谷藩領、寛文一一年(一六七一)から
若林村
わかはやしむら
若林村
わかばやしむら
東若林村の西に位置し、東西に東海道が通る。北は
若林村
わかばやしむら
- 群馬県:太田市
- 若林村
若林村
わかばやしむら
若林村
わかばやしむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報