小鹿村(読み)おしかむら

日本歴史地名大系 「小鹿村」の解説

小鹿村
おしかむら

[現在地名]対馬町小鹿

一重ひとえ村の南西に位置し、南は三根みね郷の境となる。浦口に松島まつしま中瀬なかせ下瀬しもせがあり、北東部にかつて古小鹿ふるおしかという集落があった。北東にいわしヶ浦がある。中世伊奈いな郡のうち。永享二年(一四三〇)八月五日の大掾ためいゑ書下(伊奈郷宗家判物写)に「おしかのよいち」とみえ、「つしまのまこころ」を命じられている。文安五年(一四四八)「いなのこほりおしかのよ一」が佐衛門太郎の子辻四郎次郎に関して行った約束が保証されている(同年一二月一一日「宗盛弘書下」同判物写)。文正二年(一四六七)「をしか」にある扇氏の塩竈の塩を宗氏に提供したので、扇加賀守は諸公事を免除されている(同年二月五日「宗成職書下」同判物写)。「海東諸国紀」では「五時浦二十余戸」とあるのが当地に比定される。


小鹿村
おしかむら

[現在地名]静岡市小鹿・小鹿一―三丁目・豊田とよだ二丁目

有度山うどさん丘陵西麓に位置し、西は曲金まがりかね村。「夫木抄」に「をしかのはら駿河」として源順の「時しもあれをしかのはらを秋ゆけばあづまをさへぞけふわかるべき」との歌が載るが、これは当地を詠んだものとされる(「駿河記」など)。戦国期は小鹿郷と称された。慶長一四年(一六〇九)一二月の彦坂光正駿府浅間社領所付写(旧新宮神主文書)に村名がみえ、高一二石余とある。寛永五年(一六二八)一華いつけ長善ちようぜん寺領三〇石が替地として当村のうちに設定された(「鳥居成次・朝比奈宣正連署手形」長善寺文書)。同九年大部分が幕府領となる。元禄郷帳では高一千七一石余。


小鹿村
おがむら

[現在地名]甲佐町小鹿

緑川右岸にあり、北と東は坂谷さかだに村、南は安平やすひら村に接する。東北から坂谷川が流れ緑川に注いでいる。慶長国絵図に村名がみえ、近世は甲佐手永に属した。「国誌」に「入江村坂村風戸村等小村アリ」とあり、宝暦一二年(一七六二)の甲佐手永手鑑では竈数四三・男七三・女七五、牛一四・馬四、本高一二六石九斗余、田一町八反五畝余・畑八町八反八畝余、永荒開田一反、新地畑一反九畝、諸開(一毛畝物・上畝物・野開・苅野・剪開・根柴山開・請藪)一町七反九畝余と茶床がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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