日本大百科全書(ニッポニカ) 「少正卯」の意味・わかりやすい解説
少正卯
しょうせいぼう
(?―前496)
中国、春秋末期の魯(ろ)の大夫(たいふ)。少正は官名、卯は名。当時「魯の聞人(ぶんじん)」(名を知られた声望の厚い人)と高く評価されていたが、紀元前496年、魯の司法・警察を統(す)べる大司寇(だいしこう)に就任し宰相の職務を代行することとなった孔子に「政(まつりごと)を乱す者」として誅殺(ちゅうさつ)された、と伝えられる。
孔子は大司寇就任7日にして彼を殺したが、門人(子貢(しこう))に詰問(きつもん)された。孔子はその理由として、人間がもつ悪は、盗みは除外して五つの悪を列挙できる。そのうち一つがあっても、道理を熟知した君子の誅罰を免れないのに、少正卯はそのすべてを兼ね備えている、と指摘した。さらに、少正卯の所在は徒党を組み不穏な群衆を募ることができ、弁説は衆人を惑わすことができ、実力は謀反して自立できるほどである。少正卯は「小人の桀雄(けつゆう)」(つまらぬ者たちの頭)であって誅殺は免れない、ともいった。この事件は、『荀子(じゅんし)』宥坐篇(ゆうざへん)の記載以来、『史記』孔子世家、『説苑(ぜいえん)』指武(しぶ)篇、『孔子家語(けご)』などにも載録され、後世の儒学者の間の争点となった。
文化大革命中、批林批孔(ひりんひこう)運動が提唱されたが、そこでは、この事件を儒法闘争の一環としてとらえた。旧体制を維持しようとする孔子が、当時台頭してきた新興地主層とその指導者少正卯を弾圧したもの、とみていたようである。
[飯島和俊]