築地町(読み)つきじちよう

日本歴史地名大系 「築地町」の解説

築地町
つきじちよう

[現在地名]尼崎市築地本町つきじほんまち一―五丁目・築地北浜つきじきたはま一―五丁目・築地中通つきじなかどおり一―五丁目・築地南浜つきじみなみはま一―四丁目・築地丸島町つきじまるしまちよう

中在家なかざいけ町の南東、城の南に位置し、東・西・南の三方水路が巡り、東から南にかけて松島まつしま初島はつしま新城屋しんじようやの各新田と対する。大坂から神崎かんざき渡を通って来た中国街道が、元和三年(一六一七)からの新城築造計画により中断するため、城の南方にあったよし島と小島をつなげて当町を建設し街道を迂回させた。町場の建設は青山氏の時代になってから、別所べつしよ町の岸田屋孫左衛門と嶋屋吉兵衛に命じられた。葭島は西方で南北一三二間、東方で一五一間半、北方で東西一九九間、南方で一一九間。

築地町
つきじちよう

[現在地名]高松市築地町・末広町すえひろちよう

城下東端の町。もと東浜ひがしはま村に属し、武家屋敷が置かれていたが、のち町家が発展して天保元年(一八三〇)町となった(政要録)。北は新塩屋しんしおや町、西は塩屋町一―二丁目、東は杣場せんば川、南は杣場川から西へ入る水路が通り、その北岸沿いに町が形成されている。常磐ときわ橋を起点とする志度しど長尾ながお両街道は、片原かたはら町からとおり町筋へ入り、この水路北岸を通って杣場川に出たところで南岸へ渡り、杣場川に架かるいま橋を渡って東浜村松島まつしまへと向かう。

築地町
つきじまち

[現在地名]津市東丸之内ひがしまるのうち

新魚しんぎよ町のさらに南側にほぼ並行し、岩田いわた川に沿う町人町。藤堂高虎の城下町形成により成立した町で、岩田川の掘削で得た築土による新開地と思われる。慶長一八年(一六一三)の高虎による津町地子免許状に津町の定成二一一・一八石のうち、三七・二九七石が浜ならびに築地分とある(草蔭冊子)。元和四年(一六一八)岩田川より築地町の東端を経て堀川が掘られ、玉置覚書(国訳聿修録)に「其土を東の方は築地・ほり川の町屋の地形に被仰付」とあるように、さらに築土し整地された。

築地町
つきじちよう

大正一一年(一九二二)四月に成立した現在の室蘭市の町名。絵鞆えとも半島の東部に位置し、東は室蘭湾に臨む。町名の由来は埋立地であったことによる。もとは室蘭区大字絵鞆村えともむらの一部で、オハシナイ、ポンオハシナイ、地先ちさきの字名があり、大正一一年四月に室蘭区築地町となった(「大字廃止及町名番地改称の件」昭和一六年室蘭市史)。大正一一年八月の市制施行により室蘭市築地町となる。昭和四一年(一九六六)住居表示を実施、丁目は設定せず、一部を港南こうなん町一丁目・小橋内おはしない町一丁目に移した(第四次住居表示新旧対照表)。大正期から昭和初期にかけて鉄道院が埋立事業を行った。

築地町
つきじまち

[現在地名]土浦市城北じようほく

土浦城の北東に位置する。寛文一一年(一六七一)に藩主土屋数直は「土浦城記」が「鉄砲宿之前地築為之置奴卒是名足軽町」と記すように、藩士の増加に対応するため、真鍋まなべのねずみ坂から土砂を運んで鉄砲宿の前の湿地を埋立て、足軽町の新郭をつくった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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