宮町(読み)みやまち

日本歴史地名大系 「宮町」の解説

宮町
みやまち

[現在地名]山形市宮町一―五丁目・六日町むいかまち銅町どうまち一―二丁目・円応寺町えんのうじまち薬師町やくしまち一―二丁目など

城下の北部一帯を占める広大な地域で、南は四日よつか町と町、西は皆川みながわ町、北は銅町。城下の産土神である鳥海月山両所ちようかいがつさんりようしよ宮を中心に発達した門前町で、慶長九年(一六〇四)最上義光が羽州街道を当地に移して以降集落が形成されたと考えられる。最上氏時代城下絵図では当地一帯に今宮町・ヤクシ町・エンヲシ町(円応寺町)・立町・銅町が記される。三五一軒分の下士屋敷地と広大な地域を占める楯岡甲斐守下屋敷をはじめ、一五人の重臣の下屋敷地と寺社境内地があった。両所宮の門前には護摩堂・如法堂・内御堂・成就院・福蔵坊・宮大夫・里見弥次郎などの名が記され、門前町の形態がすでに完成しつつあったことがわかる。

元和九年(一六二三)宮町村検地帳の五冊のうち一番(山形県史)によると、宮小路・宮・神人小路・宮わき・宮の内・宮町・横宿・宮の荒町・いか(伊賀町)・成就院内・薬師町・薬師荒町・円応寺町・銅町などがあり、両所宮と羽州街道沿いの宮町、東部の薬師堂・柏山はくさん寺を中心とした薬師町、その北にあたる円応寺を中心とした円応寺町の三地区に分れていた。全体で二八七の屋敷地と寺社境内地が一三ヵ所、御蔵屋敷一ヵ所が記される。

宮町
みやまち

[現在地名]仙台市宮町二―四丁目

仙台城の北東にある東照宮の門前町で、町並長さ六町(奥陽名数)に及ぶ両側町。安政仙府絵図では東照宮寄りが宮町で、西裏は侍屋敷、東裏は城下外で田と記され、小田原おだわら村分であった。宮町南に下宮町とあり、東・西裏ともに侍屋敷が並ぶ。この宮町を上宮町として、上宮町・下宮町と分れていたようだが、史料上は多くの場合宮町として扱われている。また別に権現ごんげん町とも称した。町取立ては「義山公治家記録」承応三年(一六五四)三月条に「東照大権現社御造畢」とあり、この頃と思われるが、明暦二年(一六五六)に年貢の銘付および役免が定められていることから(同三年「用捨畑方留」斎藤報恩会蔵)、同年を下ることはない。町方二四町の序列では上宮町は一九番目、下宮町は二〇番目で(明治二二年城下町検断肝入職制写「仙台市史」所収)、町の規模は両町合せ元禄八年(一六九五)の軒数一〇二(仙台鹿の子)、明和九年(一七七二)の宅地一一七、男四四三・女三三六(封内風土記)、寛政(一七八九―一八〇一)頃の書上では家数二一七のうち蔵二八、弘化二年(一八四五)の軒数一三七(奥陽名数)、嘉永五年(一八五二)の人頭・人数は、上宮町が五五人・二六三人、下宮町が七六人・四五〇人(切支丹宗門改人数)

宮町
みやまち

[現在地名]中区にしき三丁目、東区東桜ひがしさくら一丁目

伝馬てんま町の東、駿河するが(現東区)の西にあり、七間しちけん町筋と武平ぶへい町筋との間の六丁をさす。ただし七間町筋から伊勢いせ町筋・大津おおつ町筋の中間までは南側だけが町域(尾張志)。ほかに大津町筋の伝馬町ふくろ町筋との間も支配し、宮町半の切はんのきりとよばれた(金鱗九十九之塵)。慶長年中(一五九六―一六一五)清須きよす越しの町であるが、町号の由来は不詳(尾張城南陌名由緒)。開府前、裏通に大杁が存在したことに基づき、当町の七間町筋・呉服ごふく町筋間の南側を杁の口いりのくち町と称した(金鱗九十九之塵)井戸水は良好。土は黒土・赤土・粘土など。

宮町
みやまち

[現在地名]尼崎市西本町にしほんまち一―五丁目

大物だいもつ町から城を隔てて南西に位置する。元和三年(一六一七)戸田氏の新城築造計画に際し造られた新しい町で、町名は城下の総氏神貴布禰きぶね神社の鎮座地にちなむ。古地は城地となったので砂浜を替地として与えられた(金蓮寺旧蔵文書)。西大手門から直に延びる中国街道の北側に、侍屋敷と背中合せに建つ細長い町で、西町にしまち筋ともよばれた。寛永一三年(一六三六)青山氏は新屋地子改を行い、増加した足米一石余を一町七反余の取米二五石余に加え、本地子をもつ町とした。

宮町
みやまち

[現在地名]大津市御殿浜ごてんはま杉浦町すぎうらちよう

篠津しのづ川を境になかしよう町の南にあり、町並は東海道が直角に東へ折れて連なる。別保べつぽ村域に町割が行われ、同村の氏神若宮八幡神社にちなむ町名という。元禄一五年(一七〇二)の膳所総絵図(中村家蔵)に町名がみえ、東海道筋の町並は一五〇間余、家数一九。中村家蔵膳所藩明細帳では家数四七・人数一四六。当町は町場ではあるが地子免除地となっておらず、文政石高帳に宮丁村として高付され、藩に運上銀二〇匁・葭運上銀二〇匁を納めている(膳所藩明細帳)。幕末膳所城下図には刀鍛冶・豆腐屋・梅林焼・油屋などがみえるが、梅林焼は瀬戸物小商小田原伊兵衛が梅林うめばやし山の土を用いたもので、茶器などが中心であったという(本朝陶器攷証)

宮町
みやまち

[現在地名]姫路市飾磨区宮しかまくみや

飾万しかま津の浦手うらて六町の一つで、おお町の東に位置する。町名の由来は近世初期まで存在したと伝える浜乃宮はまのみや天満宮(現飾磨区須加の天満社)にちなむという。元文五年(一七四〇)の地子銀高七二七匁余(姫路町飾万津町地子銀控)。弘化四年(一八四七)の飾万津中明細覚書(藤田家文書)によれば人数六四七・竈数一六〇(本組七五・店組八五)

宮町
みやまち

[現在地名]大垣市宮町

大垣城下の北西端の町家地域で、北は宮村。もと宮村・むろ村のうちで、承応三年(一六五四)に町家となったとされる出来町。享保城下絵図に宮町とみえ、享和元年(一八〇一)の街路の長さは一町五二間(大垣市史)。貞享二年(一六八五)の地坪二千八八〇坪余(大垣城主歴代記)。寛政一二年(一八〇〇)の家数八〇・寺院一、天保一三年(一八四二)の家数六九(家持二九・借家三八・空家二)・人数二三七(男一一二・女一二五)であった(大垣市史)

宮町
みやまち

[現在地名]長浜市大宮町おおみやちよう

金屋かなや町から東へ延び、長浜八幡宮に突き当る道の両側町。町名は八幡宮の門前町であることによる。宮村領年貢地。元禄八年大洞弁天寄進帳では家数四一(借家一)、男八六・女八八で、町代・横目が置かれ、小間物屋二・みよしや・木挽仕立物屋がいた。享保一五年(一七三〇)の長浜人数留(今村文書)によれば家数四四、男八二・女八四。

宮町
みやまち

[現在地名]桑名市宮町

東・西・北の三方をふな町に囲まれている町屋敷地。「久波奈名所図会」は「当町には獅子頭ありて毎年石取神事ひやうり相済惣勘定の日山おろしといふ此日獅子頭を路頭に持出て舞すを旧式とす。先年ハ四頭あり、中古内の二頭を御宝殿へ奉納せり。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報